ベトナム現採ライフスタイルとしての自炊と他炊②
最近、外食回数を減らし自炊もしくは妻の手作り弁当が続いていたので、ぼんやりと思いつきで書いてみたんだが、自炊ってやはり楽しい。商売でやってる人からしたらずいぶん呑気なもんだが、現代人の個人的営みとして最も心技体のバランス維持にもってこいだと思ってる。
タモリが言ってた気がするんだが、料理って
「最も身近にかつ簡単にできるクリエイティブ活動」
なんですよね。スーパーで野菜・肉を買ってきてじーっと眺めるだけでもう料理って始まってると思う。今朝聴いた東京ポッド許可局ではマキタスポーツが「冷蔵庫の明かりでビールを飲むのが好き」って言ってたけど、すごいよく分かる。僕も時々する。何の用事もないのに冷蔵庫を覗く。
時間はあるが金はない、って経験がない人ってどれぐらいいるのか知らんが、自炊って終わりや成功ってないのよ。「今夜食べるものが作れた」「今日のカレーは旨く出来た」ってのはあるかもしれないが、営みとして死ぬまで続けていい。他人にごちそうを振る舞うってのも喜びとしてはあるけど、自炊の楽しみはそれではない。あくまでも自己完結的、でも本能を満たす人間の根源と接続可能な営み。本能に対する充足だけど、別に失敗してもいいしぶっちゃけ失敗なんてないとも自己定義できる。
「最も身近にかつ簡単にできる失敗体験」
自炊にはこういう効能・機能がある。ただ、ちょっと暇・ちょっと時間がある、っていう状況は必要かもね。自炊の楽しみをまるっと味わうには。
男性の自炊と言えば筆頭一位になると思われるのが、「カレー」。自炊にも食事にも大してこだわりがなくても、カレー作りだけには一家言ある人も多い。かつては「鍋奉行」なんて言ったけどあれこそ「昭和」。平成は「カレー自炊奉行」でしょう。
今思いついたけど、平成最強の食のトレンドは「カレーの多様化・多国籍化」かもしれない。
あれって完成図も味の好みも人それぞれなんだけど、なんとなく茶色くドロっとした液体に野菜や肉が混ざってるものってのは共通項としてあるだろう、「概念としてのカレー」とでもいうか。
あの概念としてのカレーらしきものにまで至る素材の調理過程・材料の変化過程を細分化する。これこそ凡人にでもできるクリエイティブだし、R&Dだとおもう。人参を角切りにする・おろし金で摺る・ジューサーで液体にする、などなど。何やったっていい。何やってもカレーらしくスパイスの塊に飲み込まれて、少なくとも色と形状はカレーにできるから。失敗なんてごまかせるし失敗なんてない。自分で食べればいいし、胃の中に入ったら何だって同じだし。
食文化って「胃の中に入ったら何でも同じ」って元も子もない事実に抗って、わざわざ面倒くさいプロセスを抽出してああでもないこうでもないってやる側面がある。
現地採用のライフスタイル、なんて僕の本職からくるポジショントークに過ぎないのだけど、「働き方改革」とか「現採って将来性ないよね」とか言ってるんだったら、これまでのライフスタイルに対する価値観・態度からいかに自由になるかってことを考えたほうがいい。ここは日本じゃないんだよ。会社の都合、マクロ経済の都合、ベトナム政府の都合とか色々あるのはわかるが、内的動機で人生なんていかようにもなるもの。食生活・食習慣なんて根源的なものまで他炊(外注)することに無自覚で、「時間がない・面倒くさい」っていい過ぎるのは、ちょっと惰性すぎる。
海外転職みたいな突拍子もない事はするのに、自分の半径数メートル内での活動には頓着しないって、はっきり言ってどんなご身分だよって思う。さっきも言った通り、日本にいるより時間があるでしょう。自炊しなさい、自炊。どうせ暇なんだから。
※下の写真は妻の実家でのバーベキューで自分で調理した「冬虫夏草ときのこの蒸し焼き」。ベトナムでも高級食材だがまあちょっとした程度。
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