「文字を意味ではなくて形」としてとらえる視覚詩、高橋昭八郎「ペ/ージ論」を読んで
真っ昼間から自宅から徒歩5分の図書館に行く。
午後2〜3時の時間帯の図書館には、地域に住むじいさん、ばあさんが多い。
新聞や最新の雑誌の虜になっている。
そんな様子を横目に、25歳の僕が退屈ではないけれど余ってる時間をつかって本を物色すると、「余生ってこんなものなのかな」という気持ちになる。
小説よりもノンフィクションや詩集が好きなので、だいたいそのジャンルのが陳列されている本棚を物色する。
その日、偶然気になるタイトルの本を、詩集があつめられた本棚で見つけた。それが高橋昭八郎の「ペ/ージ論」。
何にも前提知識なしで、詩がはじまる1ページ目をひらいてみた。
135×210mmの限られたページ用紙に
■
というただの黒塗りの四角記号が置かれ、その横には
これは穴である
と文言が一文。3×3mmの四角い深淵から覗かれているようで、さらに次のページにも■が続き、そのちっぽけな紙面の深淵に向かって吸い込まれるようにして約200ページの詩集がはじまった。
なるほど、これが高橋昭八郎のいう視覚詩(ビジュアルポエトリー)なのか。
特に印象に残っている詩を2つ紹介する。
1つは、86ページの「雨がふり/に雨がふり」と題した詩。こちらは視覚的というより従来の言葉が並んだ詩に近い。詩にでてくる言葉を断片的に抽出してみる。
琵琶湖夢街道に雨雨雨がふり
さけうめおにぎり100円純パイワインカップチュウハイレモンに雨
がふり
16B通路側AISLEに雨がふり
抽象化された国内旅行記のようだ。
旅行したあと思い出す記憶は断片で、ふとした記憶のほうが思い出すことが多いと思う。例えば、電車内で飲んだお酒、目的地で見かけた看板、日常風景。そんな頭の中を流れている一瞬のふとした記憶を覗いているようなそんな気持ちになった。
もう一つは、162ページの「詩のトーテム・ポール」。
これはその詩の一部分を引用して写真で紹介する。
昔、カナダで見たトーテム・ポールってもう少し横に広がっていたような。下記の写真のような感じだろうか?
斜め横方向に四角を書き加えれば、よりトーテム・ポールに見えそうだと作者にツッコミをいれてしまった。
※写真の上にphotoshopで書き加えた
「解釈することによって人間は衰退する」
と本人はのべている。
読み方、見方は自由で、正解はなく解釈よりもどう感じるのか。
感じ方は、晴れの日、雨の日、その時の喜怒哀楽によって変化する。
高橋昭八郎の言う「文字を意味ではなくて形」としてとらえる視覚詩。
そう聞くと文字自体もただの形で、そこに意味づけているのは人だ。
形と意味の境界線を曖昧にすることで、より直接的に読みての感情に問いかけているような詩集だった。
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