真実vs妄信ではなく美学vs美学『チ。』が描く美しさへの憧憬
『ひゃくえむ。』の魚豊先生が地動説に魅せられた人々を描く『チ。―地球の運動について―』。連載開始当初から大きな話題となり、2021年最も勢いのある作品の一つです。
『チ。』は地で血で知で智。「。」を球と見なせば「チ球」になるし、タイトルデザインからは「。」が月のようにも、地球が動いているようにも見える。印象的かつ奥深さを感じられる秀逸なタイトルだなあと思います。
ところでこの作品、地動説という真実にたどり着いた人々が、旧態依然とした愚かな社会から弾圧されながらも正義を貫いていく話、という風に捉えている人も多いのではないでしょうか。でも僕はこの物語を、真実vs妄信や正義vs悪の話ではなく美学vs美学のぶつかり合いだと考えています。
それはこの作品を読んだときに、高校時代の物理教師を思い出したから。
「天動説は真実である。」
彼はある授業でそう言いました。みんなの頭の中には??が浮かんでいたと思うし、半分以上は寝ていたかもしれません。
「あなたたちは天動説のことを古い宗教観にとらわれた非科学的でばかげた説だと思っているでしょう。」
「でも、本当にそうですか?」
『チ。』の作中でも語られているように、実は天動説で重要な点は、そこに数学的な理論が存在していることです。
物語の舞台より1000年以上前、古代ローマの時代にプトレマイオスが唱えた宇宙モデルは、地上から見える天体の動きを(当時の精度としては)正確に記述できていました。
つまり、天動説とは伝説や突拍子もない空想の話ではありません。この説が絶対的な真理として指示を得ていたのは、キリスト教の価値観が絶対的だったから、だけではない。しっかりとそれを説明できる理論があったからです。
「自分たちが生きている観測範囲と精度のなかで、その挙動が数学的にちゃんと記述できる。であれば、それは紛れもなく真実でしょう。」
マクロの世界では今でも当たり前に使われているニュートン力学が量子の世界では通用しないように、観測範囲が変われば真実は変わります。僕らはいつだって、切り取られた額縁から世界を覗いている。
当時の人々の枠内において、天動説は真実として成立していました。それを偉大な先人たちの恩恵を授かっているだけの僕らから愚かと言われる筋合いはないんです。
どちらが美しいか?
さて話を戻して、ではなぜ最終的に地動説が支持されたのか。
それこそが、本作のテーマでもあり人々を突き動かす原動力でもある「美しさ」と知性への抗いきれない憧憬です。
金星や火星、土星。当時地上から観測できた惑星たちの動きは、プトレマイオスの理論で説明できていました。
ただし「惑星」という言葉が示す通り、星たちは惑ってしまう。規則的に進んでいたはずが、速度を変えたり突然引き返したり。この動きを説明するためにモデルは複雑になり、星ごとに別の理論を当てはめることになり、宇宙全体で体系立った秩序を持たない。
それでも、夜空の星の動きは説明できる。数式で記述もできる。
でも・・・果たしてそれは美しいか?
『チ。』の中では「美しい」という言葉が繰り返し登場します。そして地動説に突き動かされる人々も、天動説を理論的に否定している(できている)わけではありません。彼らを支配するのは、どちらが美しいか、どちらが脳を揺さぶってくれるか、という知性と美学への直感です。
話は少しそれますが、本作について「ヒロインは天体」というつぶやきを見かけて、めちゃくちゃうまい表現だなあと思いました。物語の中では、誰も彼も天体に魅せられている。
この天体という言葉を宇宙、つまり「神が創った世界」と捉える時、天動説と地動説は次のようにも言い換えられます。
・神から特別な存在として創られた人間が住まうこの大地は、世界の中心に存在して然るべきである
・神が創ったこの世界は、シンプルで美しい理論によって説明可能なはずである
つまりこれは、どちらのヒロイン像が美しいかという話。
当時の人々は、この世は苦痛に満ちており死後の世界にのみ救いがあると考えていました。人間は特別だが罪深く試練を与えられており、死後の救いのために神の教えに従う。だから、地球が中心であり底辺であるのは自然であり当然だった。
一方作中で地動説に魅せられる人々は、神に救われる人間という存り方より世界そのもののに魅せられています。この美しき世界を人間の言葉で記述するために、星を観測し数式を書きなぐり、命を燃やす。
多くの人々にとって現世は絶望であり諦めであり、それゆえに死後に希望を見出していました。しかし自分が死んでもこの世が続くからこそ、思いを託せる。自らが美しい真理にたどり着けずとも、それを誰かに繋げる。それこそが作中の人物たちの希望であり、"愛"です。
「最終的に人類は、神に救われる人間という存在の美しさより、世界そのものの美しさを選んだ。天動説も地動説も、神の視界の下に選ばれたんです。」
正解に価値が無いからこそ、美学が必要
ここで少し言い訳をしておくと、授業の細かい話は覚えていないし、先生の説明も僕の記憶も間違っているかもしれません。でもそんなことは重要ではない。
「つまり、今私たちが真実だと思っている理論や実験で証明されたあらゆる事象も、社会の常識や正義も、ただ単に”僕たちにとっての真実”でしかないんです。」
彼は締めくくるようにそう言いました。自分の話に少し陶酔していたかもしれません。でも、それをおかしいとは少しも思えなかった。
技術的にも社会情勢的にも変化のスピードがどんどん上がっている今、「正解」が揺らぎやすくなっている、またはその価値が小さくなってきているようにも感じます。
真実も正義も、いつだってその時、その土地、その個人によるものでしかない。だけどそれは、だったらいくら考えても無駄でしょ、なんて厭世的なことではありません。
正解も常識も、いつだって変わる。だからこそ、美学が必要なんだと思います。何が正しいかではなく、何が美しいか。何に熱中できるか。「生き様」と言い換えてもいいかもしれない。
『チ。』の登場人物たちは、二つの真実から自分が美しいと思う方を選んだ。それは当時の正解では無かったかもしれませんが、彼らはそれを捨てられなかった。なぜなら、美しいと思ってしまったから。
拷問の恐怖も当時の正しい価値観も、彼らの思考を決して止められない。そして美学と直感からまっすぐに発せられる言葉には、力が宿る。それこそが『チ。』という作品が持つエネルギーでありロマンだと思います。
クソおっきい岩が動きだす瞬間
学生時代の授業や先生の顔なんて、正直ほとんど覚えていません。それでもおぼろげな輪郭から発せられた彼の言葉はいまだに僕の中に刺さり続けていて、きっと今の自分を構成する重要な要素となっています。思いもよらずそんな瞬間はやってくる。だから学ぶことは楽しい。
そして同じように脳と心を揺さぶってくれる体験が、『チ。』にはあります。本作が持つエネルギー、そして人類がクソおっきい岩を動かしていく様子。未読の方はぜひご覧になってみてください。
P.S.
高校時代の授業で記憶に残っているものがもう一つ。
「目には目を、歯には歯で有名なハンムラビ法典は、復讐を止めるための法律だ」
こちらは世界史のお話。気が向いたらこの話もいつか書くかもしれません。