学びの動機
教育学部出身者は、教育学に興味が強いのは当然かと思われる事が多いです。実際多数の教育学部出身者はそうだと思いますが、私個人については、教育学について斜に構えていて、それほど能動的に教育学について関わっていなかった感じが強い記憶があります。
教育学の記憶
カリキュラムの3分の1は教育に関連した講義だったはずですが、申し訳ないほどに、どの講義も、ほとんど心に刺さるものはありませんでした。今でも思い出せるのは、教育実習に関連した社会科教育学の、板書の書き方から入るという、超具体的な内容に驚いた事や、その後専門となった教育社会学の講義についての記憶が殆ど残っていない事です。
優等生ではなかったので、勉強しなかっただけだろうといわれればそれまでですが、その後の大学院での教育学の講義や演習は今でも思い出せる物があるのに比較して、余りにも印象が薄い事が気になります。それなりに講義は普通に受けていた筈なのですが、不思議です。
教養や専門科目の記憶
それに比較して、教養や専門科目の講義には、意外に記憶に残っている講義があります。全学必須だった憲法で感じた法律の必要性。演劇鑑賞での、何かを創り上げる喜び。英語での、英文を訳するよりも文学にする事の必要性を感じた事。日本史での、江戸時代の庶民生活の面白さなど、具体的な内容までは思い出せなくても、そこで感じた事は、いまでも思い出せます。
学びの動機
元々教員としての指導する教科の専門性よりも、教員の基礎として社会心理学を極めたくて大学に行ったのですが、実際の大学での学びを通じて、様々な学問分野の面白さを知る事になり、最初の動機が変化していく事になります。若い頃の学びの動機とは、意外と脆いものです。
教育学関連の講義に関心が湧かなかったのは、今考えると、教育科学が専門化しすぎていて、学部時代には教育学全体の実像が捉えられていなかった事もあったのかなとも思います。
同様に、社会心理学についても実際の学問としての内容と自分の抱いていたイメージとのずれを感じて、興味を失っていきます。
幸いにも、社会学という包容力?に富んだ分野に所属していたのが幸いして、ドロップアウトすることなく、その大海の中で、しばらくは専門性を模索する事になります。
教養の必要性
経験から学んだ事として、やはり大学などでの教養的な分野を経験する事は、その後の人生を考えるうえで必要な過程だと思います。中等教育から高等教育へのギャップを埋める分野が存在する事で、教育と学術研究への橋渡しが行われて、学術研究の分野でどう自分の身を処するかを身に付ける事ができます。学びの動機はその時々で変化するものだと思います。その変化に対処する方法を見付けるのが、教養的な分野ではないでしょうか?
現代の高等教育では、教養的な分野の定義は曖昧になっていますが、どういう形であっても、学びの動機を見付ける過程では必要な分野であると思います。
今の学生が、昔の私の様に、学術研究の世界で迷子になった時に、教養的な分野の学びによって救われる事を願っています。