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疑いと違和/柄谷行人『日本近代文学の起源 原本』『反文学論』(講談社文芸文庫、2009年、2012年)
会社の行き帰り、道を漫然と歩いていて、誰か立川談志みたいな人がいきなり現れてこの高層ビル群を見て「馬鹿なもん建ててるんじゃねえよ」というようなことを言ってくれないかと妄想していた。もちろん高層ビルというのは、単なる象徴に過ぎず、「馬鹿なもん」というのは、なにもビルに限らない。でも、少しでも隙間があれば更地にして次々にマンションが建つという狂った時代に生きているのだということで、力が湧いてくるということはない。
人は同じ方向に向かって移動している。それは都市が要請する動きだ。基本的に、郊外に住んで都心にある会社に勤めて電車で通勤する。多くの人は勤め人として一生を終える。都市が要請しているから、人々は全く同じ方向に向かって朝出かけていき夕方に帰ってくる。満員電車に苛立つのは、物理的な圧迫感、悪臭、人間の威圧感、身動きの取れない不自由さへの抵抗のみならず、自分が都市の要請に従わざるを得ないという不本意と怒りから来るのかもしれない。そういうことを考えながら歩いていて、もちろん街を歩くのは好きだし、街には面白いところもたくさんあるけれどその構造を考えた時にうんざりした気持ちになってしまう。私たちは常に命令されているから、それをいかに無視するか。いかに聞き流すか。いかにそれを無いものとして生きるかということに全力を注ぐ。そのために本を読むこともあるかもしれない。
文芸評論を読んでいると夏目漱石は近代文学の中でもとても不器用な、過渡期の人だったのではないかと思う。漢文の素養があったところに英語を学ぶようになるのもまた、江戸から明治という時代の変化を象徴するようだ。そしてイギリスに留学して酷い落ち込みを経験するあたりも、この時期の日本人の劣等感のようなものを擬人化して表しているような気がしている。誰もが葛藤をした明治時代に、そうした苛立ちや不安や疑いを持った人がいたということに、今やっと少しずつ興味を持ち始めている。
私は、恥ずかしながら、これまで近代文学をほとんど読んでこなかった。漱石ですら数作品しか読んだことがない。鴎外も高校時代にいくつか読んだだけだ。ましてや国木田独歩や島崎藤村、二葉亭四迷、樋口一葉などは、国語の教科書便覧で名前と顔を暗記したことがあるくらいだ。私は近代文学が苦手だった。愚かにも、なぜ私たちは現代を生きているのに、近代の、もう100年くらい前の人のものを読まなければならないのか、ずっと理解できなかった。でも、自分が生きている時代に嫌気がさしてみて初めて、私は近代にも現代と同じように、それ以上に葛藤した人がいたということに思い至った。
というわけで、日本近代文学を読もうとしたのだが、その前に少し寄り道をして柄谷行人を読んでみた。『日本近代文学の起源 原本』と『反文学論』(共に講談社現代文庫)である。前者は、1978年から1980年に「季刊藝術』『群像』に連載されたものを集めた本。後者は解説の池田雄一によれば1977年から1978年に「東京新聞」などに連載された文芸時評を集めたものだ。ほぼ同時代の仕事と言っていいだろう。
柄谷行人といえば、雄々しい、スパッとした、えらそうなイメージがある。それらは主に柄谷がやっていた雑誌『批評空間』での鼎談などから来ていて、忖度しないでなんでも言う、マッチョなイメージもある。そのイメージは、彼の本を実際に読んでみてもあまり変わらない。言っている理屈はそこまでシンプルではないが、一つ一つの文章はとてもシンプルだ。もともと柄谷行人は英文学を専攻していたし、アメリカの大学に行ったりして、英語をよく使うからかなと思う。年表を見ると、1980年にイエール大学比較文学か客員研究員になっている。
『日本近代文学の起源 原本』『反文学』の2冊を読み、私は読みやすさと読みにくさを同時に感じた。上にも述べたように、一つ一つの文章はとても読みやすい。迷いや忖度やエクスキューズがない、とても潔い文章だと感じる。それに対して、言っていることは、どこかねじれがある。ある「概念」を徹底的に歴史的にみていく。ミシェル・フーコーのものの考え方にも似ていると思った。
『日本近代文学の起源 原本』で言われていることは、簡単に言えば、「風景」も「内面」も「病」も「児童/児童文学」も、すべて近代になって、近代文学が誕生したときに初めて認識されるようになったものだということだ。「文学」そのものも「たかだか十九世紀において確立された観念なのである」。そしてその文学を疑ったのが夏目漱石だった。たとえば、本書は「文学」という観念をアプリオリなものではなく、あくまで歴史的に構築されたというふうに歴史化して考える。概念や制度を自明視しないという意思に、この本は貫かれている。
漱石のいう「英文学に欺かれたるが如き不安の念」には根拠がある。ただ「文学に慣れてしまった眼には、「欺き」がそれとしてみえないだけなのである。われわれは、これを異文化に触れた者のアイデンティティの危機というように一般化すべきではない。なぜなら、そのようにいうとき、われわれはすでに「文学」を自明のものとしてみているからであり、「文学」というイデオロギーがみえなくなっているからだ。漱石にそれがぼんやりとみえていたのは、むろん彼が漢文学になじんでいたからである。しかし、彼のいう「漢文学」が中国文学でないのはむろんだが、さらにまた、それは西欧文学と対置されるようなものでもない。彼は漢文学と西欧文学を比較してみるような呑気な場所にはいなかった。彼にとって、「漢文学」は実体ではなく、すでに「文学」の彼岸に想定される、すでに回帰不能で不確か何かだったのである。
「文学」というものは近代西欧の構築物であり、すでに「文学」がある世界にいる私たちは、それが無い世界を想像できない。もしくは、それ以前の、たとえば江戸時代に書かれたものも、近代以降の目線で見てしまう。本書は様々な概念を例に、そのようなことを語っている。無論、柄谷行人も江戸時代に生きていたわけではないので、その「文学」が無い世界というのは、どこか観念的に感じられる。実際にどういうことなんだろうと、本書を読んで思うことは多い。でも、理屈としては面白い。「内面」についても同じように言える。
それまでの観客は、役者の「人形」的な身ぶりのなかに、「仮面」的な顔に、いいかえれば形象としての顔に、活きた意味を感じとっていた。ところが、いまやありふれた身ぶりや顔の“背後”に意味されるものを探らなければならなくなる。
単なる顔が、いまやその奥に何か「内面」を表現している顔、というふうに読まれるようになる。それに対置されるのが、夏目漱石や森鴎外だ。
鴎外の本領は、「侍」的人間を描いた歴史小説で発揮されている。そこでは、鴎外は「心理的なもの」を徹底的に排除しようとした。この姿勢は、午前中に小説を書き、午後には漢詩や山水画の世界に浸っていた晩年の夏目漱石と共通している。おそらく、彼らは「文学」とけっしてなじめないものをもっていたのであり、また「表現」を拒絶する視点をもっていたのである。
「文学」の主流は、鴎外や漱石ではなく、国木田独歩の線上に流れていった。
また、文芸時評を集めた『反文学論』では、「大江氏がいま熱心に勉強しているらしい外国の文学批評家のほとんどは、私にとっては二流としか思えないが〜」「大江健三郎はヤウスの『挑発としての文学史』を引用して、通俗小説を「期待の地平」にそっていてそれをこえないものであると定義している。しかし私は『ピンチランナー調書』を読んで、この定義がそっくりあてはまると思った」などと、大江を盛んに挑発している。それに対して、古井由吉には、緊張感はあれど、相対的に好意的な評価を下しているように見える。かと思えば、精神分析に関する以下のような興味深い言葉もある。
フロイトが生涯で治療しえた患者の数は非常に少ない。厳密にはゼロである。彼はその過程でたえず理論を検証し修正しつづけたのであって、できあがった精神分析的方法を文学に適用するという怠惰な作業とは根本的に異なるのである。
のみならず、精神分析とは、それ自体“読む”ことであり、むしろ精神分析こそ文学批評に属しているというべきである。
この引用部分を、私はとても好きだ。後世の人間は理論を「使う」ことができると考えがちだが、フロイト自身が一人一人の患者を見て、切り拓いてきた地平というのは、決して後発の人々には共有されない。その経験自体はフロイト特有のものだろうし、フロイトのテクストを読んでいると、何かの概念の発見や発展の喜びが伝わってくる。フロイトは道がない道の、一人で先頭を歩いていたという感じがする。そこに道があるとわかっている書き手とは違う。たぶん全然違う。
柄谷は、『日本近代文学の起源』で夏目漱石は「文学」を疑ったと言っていたが、『反文学論』では、「「小説」に対する疑いなしに、批評としての批評はありえないはずである」と言っている。さらに「文芸批評としては、ここ数年の情勢論ではなく、もっと根本的であるべきだ」という。柄谷はここで述べているように、その小説が成り立つ根本的な時代条件について書いている。
ともあれ、文学そのものがとてもマイナーなものになった今、たとえば文芸時評においてもここまでの緊張感と根本性を保ちながら批評が書けるというのは、とてもすごいことだなと感じる。現在の文芸時評は、その時期に出た作品を、ある種のテーマに沿って紹介するという機能は担っているが、柄谷のように挑発的な論争を仕掛けるようなことはあまりない。そういう文学独特の緊張感、また文学における論争がまだ意味を持つ時代だったのかもしれない。柄谷行人の以降の活動にはあまり興味が持てずにいるが、初期の文芸評論はもう少し読んでみたいと思う。