2024年書籍ベスト10
(1)奥田知志『ユダよ、帰れ コロナの時代に聖書を読む』(新教出版社、2021年)
九州のプロテスタント教会の牧師であり、同時にNPO団体の代表として貧困支援の活動をしている奥田知志は、コロナ禍の期間に自身が牧師を務める八幡教会でオンライン礼拝をしていた。本書はその内容をまとめたものだ。時に関西弁で人間らしく聖書を読み解く言葉が収められており、奥田という人間に触れられとともに、生きた聖書に触れられるという意味で、聖書入門書としても人におすすめできる。何よりも、決して偉そうに他人を導いたり、指導したりするのではなく、常に自らを愚かな人間の側に置き、まるで親鸞のように聖書を読み解いていく。キリスト者になるということは、えらくなるとか、善人になるというのではなく、最も小さい者になることなのだということを想起させられた。
ユダはイエスを裏切るという間違いを犯したが、そもそもユダはイエスについてエルサレムまで一緒に来た。そして間違いを犯した後、すぐに、自らの間違いに気づき、ユダヤの祭司たちのところに相談に行った。しかしそこでユダは「そんなことは知ったことか」と言われてしまう。自己責任の言葉と共に見捨てられてしまう。人は誰でも間違いを犯す。しかし相談に行くべきは、自己責任的な論理をもとにその間違いを責めるような人間のところではない。神に許しを乞いに行くべきだった。ユダは行く相手を間違えたのだ。
(2)吉見俊哉『東京裏返し−−社会学的街歩きガイド』(集英社新書、2020年)
現在の家に引っ越してから、いわゆる「古い」東京を強く意識するようになった。例えば本郷や小石川や、牛込や日本橋や、そうした土地を意識して歩くようになると、歴史を学ぶことが面白くなる。逆にいうと、そうやって実際に歩いてみるまで、私にとってそうした土地はどんなに本で読んで知識として知っていても、自分と関係のある場所には思えなかった。
本書は著名社会学者が、集英社新書の編集部と共にそうした都心北部の街を歩き、時に歴史を語り、時に今の街は十分にポテンシャルをいかせていない。本当はこういう可能性があるのではないかと提案する、そうした街と知を混ぜ合わせたような本だ。ただの歴史本でもないし、ただの散歩本でもない、その二つが混ざり合い、そして著者の強烈な個性と混ざり合って、不思議な魅力を放つ。中沢新一『アースダイバー』シリーズと双璧をなす、東京が面白くなる本。
(3)阿部幸大『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』(光文社、2024年)
論文を書くということは、技術的な作業であり、精神論ではない。文章が上手いとか下手だとか、そういう以前に、クリアしなければならないことがたくさんある。本書はその意味で、徹底的に実用的だが、読んでいくと、同時に、本書が著者自身の思想の表明でもあり、そしてもっと言えば自伝にさえなっている。
本書を境に、アカデミックなメソッドを紹介する本が流行になっているが、本書は他の類書とは違うのは、アカデミック・ライティングの技術の背景に著者という名の作者性が見えることであり、だから別に論文を書かない人間が読んでも面白い。実用的であることと精神的であることは対極のように語られがちだが、本書を読めば、その二つがまさに表裏一体であることがわかる。野球選手のイチローがあるとき高校生に野球の指導をしていて、「野球がうまくなることより、こんな大人になりましたと報告してくれる方が嬉しい」と言っていたのを思い出した。
(4)南直哉『仏教入門』(講談社現代新書、2019)
著者は青森恐山の住職である。僧侶であるが、仏教に関して徹底的に神秘を排した記述が特徴。それは聖書学者の田川建三を想起させる。私の印象としては、仏教は宗教というよりは思想だ。決して超越性に逃げない。どこまでも自らの限界を見つめ続ける行為であり、そうした哲学であると感じているが、本書を読み、その思いを強くする。
「まるで疑いを持たない人は信じることはできない」「たとえその事態をそのまま言語化できないとしても、その言語化に挑み続け、常に宿命的に失敗し続け、それでもなお言葉を更新し続けるしかない。その無限の行為において、「空」「無我」と呼ばれている事態を指示し続けるしかない」。まるで構想主義以降の哲学書を読んでるようだ。一言一言が刃のように鋭く、読む者を挑発し、鼓舞し、思考とその限界へと導く。現代社会がどれだけ空疎でボロボロになったとしても、私たちにはまだ仏教がある。
(5)松下隆志『ロシア文学の怪物たち』(書肆侃侃房、2024年)
朝から晩までSNSで繋がり、誰もが明るくて安全で清潔な街を歩く。何もかも、輪郭がはっきりしていて、私たちは小虫のように灯りに群がって飛ぶ。現代社会に欠けているのは、仄暗い闇ではないか。そして社会から断絶される、切断されるということではないかと、本書を読みながら何度も思った。
著者は大阪での少年時代に過剰な暴力に囲まれて育ち、北大時代には社会から隔絶された極北の図書館でひたすら哲学書を読み耽り、ついにはロシアで最も過激な現代作家ソローキンの訳者になる。本書は、そうした気鋭のロシア文学者が書いた自伝でありロシア文学入門である。
そこには現在のシーンからは失われた濃密な孤独と無力感がある。そうした仄暗い力こそが文学を支えてきたとすれば、翻って今の文学はどうなのか。消費されることを頑なに拒む本書の佇まいは、読み手に様々なものを思い出させ、その苛烈さが逆説的に今を生きる力を与えてくれる。かつて文学がそうであったように。
(6)中溝廉隆『巨人軍vs.落合博満』(文藝春秋、2024年)
落合博満という野球人には、常になんとなく目を離せないような魅力があった。かつて三冠王を獲得しながらも、どこか他の野球選手とは違う。自らの道を行く者はいつでも人の目を惹きつける。誰の言うことも聞かない「オレ流」。自ら納得してからでないとキャンプにも参加しない。
そうした独立独歩の男が名門巨人の扉を叩く。巨人のアイドル原辰徳との確執、後輩松井秀喜との関係、そして落合退団の引き金を引いた清原和博とのFA移籍騒動。永遠の憧れ長嶋茂雄。話題には事欠かない。
本書を読むと、落合がいかに巨人OBに嫌われていたかがわかる。『嫌われた監督』でも描かれたような、孤独でなにを考えているかわからない、でもどこか、その奥の奥の方に、誰もが温かみを読み取ってしまう落合という不思議な人間の輪郭が、ここにも書かれている。巨人という「群れ」と落合という「個人」の対比が際立ち、否が応でも読者は落合を応援させられる。誰の言うことも聞かないということの難しさとかっこよさと苛烈さが、私たちを魅了する。
(7)坂口恭平『生きのびるための事務』(マガジンハウス、2024年)
事務についての本だが、普通に読者がイメージするような「事務」ではない。ここでいう「事務」とは、大きな目標を設定し、そこに至るまでの過程のすべてである。「スケジュールの管理」と「お金の管理」。こう書いてしまえば普通のようだが、本書では、坂口の家に転がり込んだ家出中の青年ジムが、徹底的に具体的にこの二つを考え抜く。
私たちはなにに時間を割くべきなのか、なにでお金を得るべきなのか、なにを優先すべきなのか、好きなこととは何か? 夢や目標や人生を語るとき、私たちはこのことについてどれだけ考えただろう? 人生の大部分を費やすに値する労働とはなにか? 本書に書かれているのは、そうした具体的な事柄をもとに徹底的に考えるということだ。そうしたことを一つ一つ詰めて考えていくと、やがて朧げながら一つの思想が形成されていく。そうしたプロセスを本書は書いている。だから、本書で言うように、事務が全てであり、それ以外にはなにもない。事務とは思想の具現化なのだ。
(8)永野『僕はロックなんか聴いてきた』(2021年、リットーミュージック)
いつも新しくあり続けなければならないと思ってきた。例えば音楽、例えば本。なんでも新しいものについていかなければ、自分が古びてしまうと考えていた。だから高校時代にあれだけ熱心に聴いた洋楽ロックなんかは、ほとんど聴かなくなっていた。封印していたといってもいい。でも、2000年代以降の音楽にはどうしても馴染めない、自分のものだという親しみの感覚が持てない。
本書は永野というお笑い芸人が、自身がかつて聴いてきた音楽を振り返るという内容だ。いわゆる「タレントのエッセイ」だが、その目次を書店で一目見て驚いた。私が高校時代に好きだった音楽ばかりだった。私と同世代の読者にはこの気持ちはわかってもらえるのではないか?
ニルヴァーナ、コーン、レッチリ、U2、レイジ、パール・ジャム、リンプ、ナインインチネイルズ、プライマル・スクリーム、ブラー、レディオヘッドなどなど。そうした音楽について正直に、当時の時代の空気感も含めて身も蓋も無く語った本書を読み、私はもう90年代を封印するのをやめた。もうおじさんでもなんでもいい。
新しいものを浅く追い続けるよりも、自分が好きなものを深く突き抜けるまで愛して、味わい尽くしたら、また新しいものに出会えるはずだと思った。そういう私なりの思想的ブレイクスルーをもたらしてくれた本書を忘れることはないだろう。
(9)牧野知弘『家が買えない』(ハヤカワ新書、2024年)
東京は家が高すぎる。引っ越しを考えていたとき、何度そう思っただろう。今はタワマンバブルと言われ、日々その高騰ぶりがメディアを賑わしている。晴海フラッグだ、麻布台ヒルズだ、小田急の建て直しだ、渋谷駅前再開発だ、東京にいると感覚が狂う。
物価が上がり、賃金は上がらない厳しい経済状況の中でどこにそんな金額を出せる人間がいるのか? その人間はその金額に値するほどの人間なのか? 闇の気持ちが胸の奥からグツグツと湧き上がってくる。人の住む場所には露骨に価値観が現れる。格差も、ある意味で可視化される。その意味で、住宅市場ほど残酷なものもない。
本書は、そうした住宅価格の高騰について、非常に冷静に分析し、そしてある意味で保守的な結論を導き出している。曰く、投機目的でマンションを買う一部の取引によってマンション価格全体が高騰している。その一方で、家の相続にはさまざまな困難がつきまとうため、深刻な空家問題も起きている。「マイホーム」と言われた時代から、通勤というのが、家を選ぶ上で非常に重要になってくる。近年では都心回帰が叫ばれるが、そうした価値観もいつまでも続く保証はない。現に数十年前、サラリーマンの憧れだったニュータウンは今は高齢化し、「オールドタウン」と化している。
不動産業界で働く著者だが、そうした住宅に関する歴史的な記述もあり、新書としてオーソドックスな体裁を取る。結論として、著者はタワマンにはかなり否定的で、むしろ時間をかけて文化が継承されていくような「街」を大切にすべきだと言う。立川、ユーカリが丘団地、流山、などの街づくりが例として示されており、これらの街に行ってみたいと思った。
(10)岩内章太郎『〈私〉を取り戻す哲学』(講談社現代新書、2023年)
現在、講談社の文芸誌『群像』で連載中(終わった?)の、同著者による連載が大変面白い。北海道札幌市出身の著者だが、家族の死に伴う葬儀などをきっかけに、具体的な出来事から哲学的な問いを提起するような連載エッセイである。ユーモアもあり、大変読み応えがある。
本書はそれに比べるとやや真面目な書き振りの印象はあるが、それでも様々な問いが提起されており、面白い。昨年末から今年初めにかけて読んでいた本なので、今読み返してみて、だいぶ内容を忘れていたが、この書き手のことはとても印象に残った。本書全体で語られているわけではないが、帯にも記されているスマホについて考えることはとても大切なことだ。
「〈私〉の外側の世界は見るが、〈私〉の内側の声は聴かない。他者と対話することはあっても、自己と対話することはない。慢性的な暇と退屈をはぐらかすために、いつもスマホを見ているわけである。こうして、希薄になってきているのが、〈私〉という存在である」。
これから私たちはますますスマホに支配されるだろうし、AIなどの登場により〈私〉の希薄化もまた進むだろう。なにが真実かも、ますますわからなくなるだろう。優しさや正しさもまた、相対化にさらされるだろう。だからこそ、哲学がそうした問いについて粘り強く考えることが必要であり、本書はその一つの例だと言える。彼はこれからも考え続けるだろうし、その姿を読み、私たちは考えることを学ぶかもしれない。