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高田馬場ポタリング

慌ただしかった2022年が終わり、ぽっかりと時間の空いた2023年の正月明け。
せっかくなので、自転車でぶらりと出かけることにしました。行き先は地図に決めてもらいましょう。

パッとめくって、高田馬場!

ジーッと眺めて、甘泉園公園からスタートします。

案内板に
「甘泉園という名は、園内に湧き水があり、清川で常時枯れず、また、茶に適したところから起こったものであり」
と書いてありました。さっそく、中へ入ってみましょう。

元々は徳川御三卿の一つ・清水家の下屋敷があったところで、大名屋敷の面影を残した回遊式庭園となっています。

雪吊りとタワマン。
東京は、街の中に名所旧跡がぽつぽつあって、その組み合わせが面白い。

庭園の奥に、滝がありました。

2段の滝で、なかなか良いじゃないの♪
名の由来となった湧き水は枯れているそうなので 湧水ではありませんが、ざあざあと響く音が心地よいです。

甘泉園公園に隣接して、水稲荷神社がありました。

すぐ隣りは早稲田大学。
お参りする受験生や保護者の方も多いかもしれませんね。実りある春を迎えられますように。

社殿の裏に「水神社」がありました。
このあたりは台地の傾斜地となっています。台地のへり、というやつでしょうか。だから水が湧き出やすかったのでしょうね。
高田馬場、じつは他にも湧水スポットがあるんです。行ってみよう〜。

コンクリートの谷底深く流れる神田川に沿って走ります。けっこう水量があって、覗きこむと、ちょっと怖かった。
上の写真は、たしか面影橋から撮ったものだと思いますが、違っていたらごめんなさい。

面影橋(おもかげばし)、なんとも雅ですね。
橋名の由来について、3つの説が案内板に書かれていました。

①在原業平が鏡のような水面に姿を映した。
②鷹狩の鷹をこのあたりで見付けた将軍家光が名付けた。
③近くに住む和田某の娘・於戸姫(おとひめ)が、数々の悲劇を嘆き、水面に身を投げたときにうたった和歌から名付けられた。

…在原業平って、平安時代の人だよね。
平安時代、京から遠く遠く離れたこの地は、どんな風景が広がっていたのでしょう。そして都人の目に、どんなふうに映ったのでしょう。

早稲田から都電荒川線(最近は、東京桜トラムと呼ぶらしい)が走っています。路面電車を見ると、遠くへ旅した気分になるから不思議。

高田馬場から北へちょいと入ったところにある「おとめ山公園」。
なんともロマンチックな名前ですが、漢字で書くと、「乙女山」ではなく「御留山」(または御禁止山)。
江戸時代、ここは将軍の狩り場のため一般人は狩猟禁止となり、「おとめ山」といわれるようになったとか。
ここも台地の斜面になっていて、湧水が今でも見られます。公園内では蛍の飼育もおこなっているそうです。

賑やかな高田馬場駅のすぐ近くに、こんな鬱蒼とした森があるなんてね。

右奥の斜面から湧水が出ているのですが、この日は涸れていました。晴れ続きだったからかな。それでも右側の藪からしみだした水が、細く池へ流れていました。

一昨年の11月、この公園のベンチに座って、須賀敦子の「コルシア書店の仲間たち」を読んでいました。
うまくいかないなぁ、と感じる出来事が立て続けに起きた時期でした。
高田馬場でしばらく時間を潰す用件があり、私は駅の近くの本屋で「コルシア書店の仲間たち」を買って、ここへ来ました。不安や諦めや苛立ちや覚悟や、いろんなごちゃごちゃした気持ちを抱えながら本を読み、木々を眺め、空を見上げたものです。
あれから一年。
乗り切った出来事も、今も継続中の出来事もありますが、今回は平穏な気持ちで立ち寄ることができて良かった。

人生、山あり谷あり。
高田馬場周辺も、山あり谷あり。自転車で走ると、起伏のある地形であることがよくわかります。

公園の入り口で、こんなパンプレットをもらいました。
「目白文化村」というものがあったんですね。この前の池上は「馬込文士村」だったな。
おや、近くに「下落合 野鳥の森公園」があるとか。行ってみますか。

「野鳥の森公園」は、マンションや建物に囲まれた小さな公園でしたが、ミニ渓流と水場があり、いろんな鳥の鳴き声が響いていました。

なかなか勢いのあるミニ渓流です。

野鳥に詳しかったら「この鳴き声は…」と楽しめたでしょうね。私には声の違いは分かっても、種類までは分かりませんでした。
でも、ベンチに座って四方から聞こえる鳥の鳴き声に耳を澄ませていると、気持ちが無になって、頭の中が軽くなった気がしました。 
こんな街中で鳥の鳴き声に癒されるなんて、びっくりです。

野鳥に癒されたら、公園の横の激坂を登って、次の目的地へ。

「佐伯祐三アトリエ記念館」
佐伯祐三は、大正から昭和初期に活躍した西洋画家で、大正10年、ここにアトリエ付住宅を建てました。

佐伯祐三さん、なかなかのイケメンです。二度見してしまいました。

佐伯祐三旧居・アトリエ復元模型

洋風のアトリエの南側には、家族で住んだ和風の母屋が建てられていました。(今はアトリエのみ現存)
佐伯祐三が、この地で暮らしたのは、わずか4年余り。家を建てた大正10年から夫人や長女を連れてフランスへ向かう大正12年までと、大正15年に帰国して再びフランスへ渡る昭和2年までだそうです。
佐伯祐三は、2度目の渡仏後、わずか1年でパリで病疫しました。享年30歳。

…といった事柄を、アトリエにあるビデオを観ながら学ぶことできました。

じつは、ここに来るまで佐伯祐三という人物を知りませんでした。
地図を見て気になって訪れてみたけれど、こんな素敵なところだったとは。
自転車は、興味のおもむくまま、広範囲にまわれるから楽しいですね。

奥様の米子夫人も画家で、佐伯祐三の没後は日本に帰国し、この地で活動されたそうです。米子夫人の作品も展示してありました。

佐伯祐三は、ここに住んでいる間、近辺を描いた「下落合風景」という連作に取り組みました。それを見ると、当時、このあたりは郊外の売り出し中の新興住宅地、といった感じだったようです。崖線からの湧水や雑木林もあり、今と全然違っていたでしょうね。
管理棟に、ポストカード大の「下落合風景」の絵と現在の写真がファイリングされていました。街並みは全然違うのに、地形はどことなく面影が残っていて、見比べると面白かったです。

自転車を走らせて、次の場所へ。
「目白の森」が気になっていたけれど、いつの間にか通り過ぎてしまった模様。
途中、素敵な教会がありました。

目白聖公会

あとで調べたら中に入れたようですが、なんとなく尻込みしてしまって外観のみ。ステンドグラスが美しいそうなので、次は入ってみたい。

「目白の森」は諦めて、目白庭園へ。
…あれ、高田馬場ポタリングが、いつの間にか目白ポタリングになっている。ま、いいか。

目白庭園は、平成2年に作られた区立の庭園です。HPによると「豊島区の都市化、国際化が進む中で、自然に接し、伝統文化を育む場として」開設されたそう。
庭園といえば、滝がつきもの。

レースのような水紋が美しい滑滝です。
庭園のいちばん奥に、岩をすべるように流れ落ちていました。

なんとなく、逆さ写真

そんなに広くないのですが、穏やかで暖かい日だったからか多くの人が訪れていました。

そういえば私の若い友人は、ここで結婚式の前撮り写真を撮ったそうです。この日は振袖姿の娘さんが業者さんに撮ってもらっていました。素敵な思い出になるでしょうね。

また自転車を走らせて、雑司ヶ谷旧宣教師館へ。
…あれ、今度は雑司ヶ谷ポタリングになってしまった(笑)

パンプレットによると
「明治40年にアメリカ人宣教師マッケーレブの居宅として建てられた、近代木造洋風建築」
で、
「19世紀後半のアメリカ郊外住宅の特色を写した質素な外国人住宅」
とか。
このお宅が質素なら、もっと質素な我が家はどうなるんだろう…。

時間も押していたので、中をさっと見学して、最後の場所へ。

池袋からほど近いところにありながら、このあたりは昭和の雰囲気が漂っています。

雑司ヶ谷の鬼子母神。
ここに来ると、少し昔にタイムスリップしたような不思議な気持ちになります。豆腐屋のラッパが聞こえてきそうな、そんな雰囲気。

境内に駄菓子屋がありました。大人女子にも人気のようです。懐かしいですよね。

樹齢約700年という、ご神木の大イチョウ。
この街の移り変わりを、どんなふうに眺めているのでしょう。

暗くなってきました。そろそろ帰りますか。

鬼子母神前駅の踏切。
路面電車は、夕刻もいい。なんだか乗客の息遣いを感じます。
そんなことろも、タイムスリップした気持ちになる一因かも。

帰り道、どこかの公園にて。
高台にあり、眼下の街がとても美しく見えました。

高田馬場ポタリングといいながら、じつは馬場に寄っていなかったのですが(笑)、東京の起伏や昔の姿を感じることができて面白かったです。
ちなみに今回訪れた場所は、すべて入園無料。自転車で走って、学んで、癒されて、充実した一日でした。

次は、どのページをめくってポタリングしましょうか。楽しみです。

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