差別をどう捉えるか――「マイノリティの生きづらさ」の理由
■ヘイトスピーチからヘイトクライム、ジェノサイドへ
「ヘイトスピーチ」という言葉をご存じでしょうか。よく「誰かの悪口」や「罵詈雑言」という意味合いでこの言葉が使われている場面に遭遇しますが、それは間違い。正しくは、憎悪や差別を扇動する表現のことを指します。「ばーか!」は該当しませんが、「みんなであいつらをバカにしようぜ!」は該当します。
ゼロ年代以降、このヘイトスピーチがさまざまな場面で頻出するようになり、社会問題化しています。当初はインターネットの匿名掲示板などでひっそり行われていたそれが、やがてオフラインの公共空間や街頭にも広がっていきました。「ネトウヨ(ネット右翼)」という担い手の呼称にその歴史が見え隠れしています。
彼(女)らが標的にしてきたのは、人種や民族、出身国/地域、宗教、ジェンダー、セクシュアリティ、障がいなどの点でマイノリティにあたる人びとで、在日コリアンをはじめとする在日外国人、アイヌ、被差別部落出身者、LGBTQ、セックスワーカー、路上生活者などが攻撃の対象となってきました。
「たかだか悪口を言われたくらいで」などとはゆめゆめ思わないでください。ヘイトスピーチは対象者に恐怖を与え、その人の行動や生活を妨げる、物理的かつ社会的な暴力の行使を意味します。「〇〇[あなたが所属するカテゴリー]を殺せ!」と訴える集団が練り歩く街頭を、あなたは安心して歩けますか?
蔓延するヘイトスピーチは、より激しい攻撃や暴力をも誘発していきます。「殺せ!」の声に煽られ、実際にそれを企図する者らが出てくるのです。2016年には、神奈川県相模原市の知的障がい者施設でもと職員の若者が入所者19人を虐殺する事件がありました。差別・偏見に基づく犯罪(ヘイトクライム)です。
怖いのは、こうしたヘイトが大衆的に拡散していくことです。実際に今から100年前、関東大震災の被災状況下で不安に駆られた人びとが6000人ともいわれる朝鮮人を虐殺しました。そんな昔のこと、と思わないでください。首都直下型地震が迫る現在、ジェノサイド(大量虐殺)の再現が深刻に危惧されます。
■ヘイト暴力を支えるもの
ヘイトスピーチやそれが昂じたヘイトクライムはあくまで氷山の一角です。まともな社会からいきなりそうした暴力が噴出してくるわけではありません。社会の側にそれらを芽吹かせ、育む土壌があるからこそ、そうしたものが育ってくるのです。では、ヘイト暴力を支える土壌とは何でしょうか。
ブライアン・レヴィンが「憎悪のピラミッド」という図を示しています。ヘイトの発達段階を説明する概念です。まずは悪意なき先入観が社会に浸透していることが土壌となり、そのもとで偏見に基づく具体的な差別行為が行われるようになり、さらにそれらが増えるなか制度的差別が正当化されていくようになります。
そしてついに、物理的かつ身体的な暴力行為が発生するようになり(これがヘイトクライム)、それが大衆的な規模にまで発達していく――最上段の「ジェノサイド」――という構図です。ということは、社会が憎悪の階梯を登っていくのを防ぐ以外に、そうした極限の暴力を阻止するすべはありません。
要するにそれは、私たちが私たちの身近なところにある、未だ成育途上の「暴力のタネ」――「マイクロアグレッション(小さな攻撃性)」とも呼ばれます――に敏感になり、早いうちにそれらの芽を摘んでいくという実践を意味します。では、「暴力のタネ」をどうやって見わけたらよいでしょうか。
平和学者のヨハン・ガルトゥングは、暴力を「本来であればできたはずのことができなくなっているとき、そこに働いている力」と定義します。そうした力には、行為者がいる/はっきりしている場合と、いない/はっきりしていない場合とがあり、前者を個人的/直接的暴力、後者を構造的/間接的暴力と呼びます。
いじめ事案によくある話ですが、いじめ防止対策推進法(2013年)の定義に該当するか否かに関わらず、被害者がその潜在的な可能性を何らかの形で妨げられているのであれば、そこには暴力が存在しています。まずはそうやって暴力の存在を否認しようとする力に抗い、それを可視化していくことが必要でしょう。
■社会モデルという考えかた
実際、戦後日本社会においても、1960年代以降、そこに暴力があるのだということを言上げし、その撤廃を訴えていく社会運動が、さまざまなマイノリティの人びとによって展開されてきました。障がい者差別の解消を訴えた「青い芝の会」(脳性麻痺者の当事者団体)、女性解放を訴えた「ウーマンリブ」などです。
こうした当事者たちの運動は、これまで彼(女)らの存在を無視して営まれてきた社会や制度のありように異議申立を行い、そこに欠けている視点を補充していくようになります。男女共同参画社会基本法(1999年)、障害者差別解消法(2013年)といった法律は、この当事者視点を制度化したものです。
マイノリティの視点というものを考えるにあたり、示唆的なのが「社会モデル」という概念です。もとは障がいをもつ人びと自身による当事者学の実践である「障害学」由来のもので、「障害」をどう捉えるかに関わる考えかたです。さてでは、「障がいを生きる」とはいったいどういうことなのでしょうか。
例えば、足が不自由な方がいて、彼(女)が自由に出かけられないというとき、その「障害」はどこにあるのでしょうか。通常はそれを彼(女)個人の「足の動かなさ」と捉え、治療やリハビリで歩く力を取り戻させることを目指すのが一般的です。この発想を「個人モデル」または「医療モデル」といいます。
他方で「社会モデル」とは、「障害」を当人とその人をとりまく社会・環境との相互作用のなかで生まれる現象と捉える考えかたです。彼(女)が自由に出歩けないのは、車いすがないこと、車いすがあったとしても目的地までの交通手段の不備やさまざまな障壁(バリア)の存在などが原因ということになります。
つまり、たとえその人が心身に何か不調を抱えていたとしても、その人をとりまく社会・環境の側にさまざまな支えが実装されていれば、彼(女)は目的地にたどりつくことができます。暴力が蔓延する社会というのは、「社会モデル」からは、こうした「さまざまな支えに乏しい社会」として理解することが可能です。
■反差別のとりくみ
であるなら、マイノリティの彼(女)らが必要とする「さまざまな支え」を各所でつくりだし、社会に実装していくことこそが、蔓延する暴力に対抗しうる実践となるでしょう。この「支え」には、スロープや性別欄なき履歴書などの有形物から「大丈夫?」との言葉かけにいたるまで、さまざまなものが含まれます。
もちろんそれらは、マイノリティの人びと自身の当事者運動/活動としてまずは各地で組織化されてきました。何が必要かのニーズを決められるのは、当事者だけだからです。でも、かといって当事者だけが暴力に対抗すべきというのはおかしいわけで、非当事者にもできること、やるべきことはあるでしょう。
この非当事者の実践としては、性的マイノリティの人びとの運動/活動の界隈で生まれた「アライ(共感的な支援者)」「アクティヴ・バイスタンダー(行動する傍観者)」という概念を紹介したいと思います。どちらもマイノリティの味方として社会に現れることで、当事者に「支え」を提供する実践です。
具体的には、ヘイト暴力がふるわれる場面に出くわしたとき、彼(女)たちがその場に直接介入したり(ストッパー)、加害者の注意をそらしたり(スイッチャー)、証拠を残したり(レコーダー)、のちほど被害者をフォローしたり(シェルター)、第三者に助けを求めたり(レポーター)することを意味します。
こうした味方の人びとが同じまち、同じ社会に居ることによって保たれる安全は、当事者の方がたにとって大きな意味をもつものでしょう。同じまちにいるはずのまだ見ぬ当事者にこのメッセージを伝えるべく、性的マイノリティの運動/活動においては「レインボーパレード」と呼ばれる街頭行動が行われています。
こうして、当事者のみならず、それに共鳴する非当事者たちを広範に巻き込んだかたちで運動/活動が育っていったとき、法律や制度の創設・改編が視野に入ってきます。例えば、同性婚などがそれにあたるでしょう。私たちはこんなふうに、暴力が蔓延する社会を少しずつ変えてきたし、これからも変えていくのです。(了)