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2人の“知の巨人”との対話――赤坂憲雄『民俗学と歴史学:網野善彦、アラン・コルバンとの対話』(藤原書店、2007年)評

「ひとつの日本」から「いくつもの日本」へ、東/西から南/北へと、列島の新たな民族史的景観を切り開く、そのための視座を東北にすえた知の運動「東北学」。本書はその提唱者(東北芸術工科大学・東北文化研究センター所長)の、運動前夜における、二人の知の巨人との対話の記録である。

巨人の一人は、日本中世史学において独自の貢献を果たした「異形の歴史家」網野善彦。水田中心史観を厳しく批判し、非農業世界として列島の社会史を描いた網野との対話では、「稲作的なもの」を核に東北の本質をとらえた柳田国男「一国民俗学」への批判が基本モチーフとなる。例えば、東北の稲田イメージは、近代の風景(庄内平野は近世後期における企業的モノカルチャーの開発の結果)であり、東北古来のものではない。東北の基層は非農業的な世界であった。

そしてもう一人の巨人が、フランスの社会史学派・アナール派の「感性の歴史家」アラン・コルバン。感性の歴史とは、愛や悲哀、喜び、残酷、死など、感情や情緒を人びとがどう社会的に構成してきたのかを対象とする領域だ。こちらの対話では、アナール派誕生と同時期の日本で、民衆(常民)の生活や文化へとまなざしを向けた柳田の思想史上の功績に光があてられる。例えば「明治大正史世相編」。柳田はこうした観点からあらためて読まれなければならない思想家である。

二つの対話に共通するのは、柳田民俗学の功罪をどうとらえるかという課題だ。柳田の枠組みが必要とされた時代が過ぎ、私たちはようやく、彼の描いた「日本」や「東北」を、しかるべき距離をもって眺めることができるようになった。柳田民俗学が体制化の過程でノイズとして切り捨てた東北の多彩さや豊かさ。郊外化や観光開発という新たな近代の波が押し寄せる地域の現在、あるいは「美しい日本」という平板な虚構が忍び寄る地域の現在において、この多彩さや豊かさは、私たち東北の民の地域意識のよりどころとして極めて重要な意味をもつだろう。(了)

※『山形新聞』2007年07月15日 掲載

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