〈沖縄〉からの問い――「東北の春」に向けて(05)
若者支援の実践者や研究者が集まって交流する全国フォーラム「第10回全国若者・ひきこもり協同実践交流会inおきなわ」が2月に那覇で開催され、それに参加するため、四泊五日の日程で沖縄に出かけてきた。筆者にとって、はじめての沖縄だ。
もちろん主目的は、全国各地の支援者や研究者たちとの実践交流だが、はじめて〈沖縄〉という場所を体験できるということもあり、ついでにあちこち観光してこようと思いながら現地入りした。
この機会にまず観てこようと思ったのが、ひめゆり平和祈念資料館である。2008年と2009年に、「ひめゆり学徒隊」の生存者の証言を集めたドキュメンタリー『ひめゆり』(監督:柴田昌平/2007年/日本)の自主上映企画を、筆者が運営する若者支援NPOが中心となって山形で開催した、というご縁があり、やはりまずはこの資料館を訪れてみたかった。
あとは、米軍基地。沖縄の面積の一割を占める等といわれるが、それがどういうことなのか、まるで想像がつかない。現地を訪れてみれば、少しはそれをイメージできるようになるかもしれない。そんなことをぼんやり思いながら、那覇空港に降り立った。
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2月の沖縄は、ちょうどプロ野球のキャンプのシーズンということで、ホテルはどこも満室。仕方なく、国際通りのはずれにある場末感漂うゲストハウスに四泊した。一泊1,000円。六人で相部屋という環境だったが、同室になったおじさんやおにいさんとしゃべるのが意外に面白かった。
五日間、いろんな人が出入りしたが、ずっと滞在しているらしい若者もいた。日中ずっと二段ベッドのカーテンを閉め切り、深夜になるとそこから出てきて誰もいないコモンルームでPCに向かう、という日々を過ごしているようだった。いろんな人生がある。そういうことが何となく感じられる場所だった。
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実践交流フォーラムの話は割愛する。ゲストハウスから会場までは片道一時間ほど、二日とも散歩しながら通った。通り道の国際通りは、早朝と深夜とでまるで表情が違う。朝はさびれた田舎の繁華街みたいなたたずまいの街路が、帰り道の深夜には、現代アジアふうの、多国籍でポストモダンな雑踏に変貌する。飛び交う言葉の多様さに、自分のいる場所がどこなのかよくわからなくなる。
その一方で、国際通りから垂直方向に伸びる路地たちは、灯りもなく近代以前の闇の中に沈みこんでいくようで恐怖をかきたてられた。好奇心で一度だけ足を踏み入れてはみたが、戻れなくなりそうであわててもと来た道を引き返した。
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フォーラム終了後は、いっしょに参加した福島の友人たちとレンタカーであちこち回ることに。かくして、旧海軍司令部壕、ひめゆり平和祈念資料館、辺野古基地建設予定地、斎場御嶽(せーふぁうたき)、道の駅かでな[嘉手納基地が見渡せる展望台がある]…とスタディ・ツアーを満喫することができた。
念願だったひめゆり平和祈念資料館では、第四展示室から動けなくなってしまった。そこでは、亡くなった少女たち一人ひとりの遺影が掲げられ、彼女らがどんなふうに生き、どんなふうに亡くなったのか、が細やかに記録されていた。ああ、この子たちは生きていたんだな、と思ったら涙をおさえることができなかった。
基地に関しては、辺野古と嘉手納に足を運んだが、とりわけ印象的だったのは、沖縄南部から辺野古のある北部にむかう道中の風景。一本しかない高速道路を道なりに北上するのだが、道路の両側がしばらくの間ずっとフェンスを隔てて米軍基地で、その広大さに言葉が出なかった。
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かくして、沖縄を出立するころにはすっかり彼の地に魅了されていた。いったい自分は沖縄の何に魅せられたのだろう。あらためて考えてみるにそれは、私たちが自明視する本土のそれとは異なるもう一つの戦後日本の姿がそこにあったからではないか。
本土では塞がれ不可視化された穴ぼこたちが、沖縄ではむき出しのままあちこちに普通に点在している。沖縄にいると、戦後日本がアメリカの植民地である――さらには、〈沖縄〉が日本の植民地である――という事実に、むきだしのまま触れている感じがする。山形ではあまり味わえない感覚だ。
戦後日本という繭(コクーン)のなかでまどろむ本土の私たちは、その不感症の果てに、いまや再び全体主義に身を委ねようとしている。傷があちこちでむきだしのまま疼いているような〈沖縄〉の姿は、私たちに、私たちに固有の傷の在処を問いかけてくるようでもある。
もちろんそれは、東北もまた戦後日本におけるもう一つの〈沖縄〉だからである(3.11がそれを白日の下にさらしてくれた)。では、私たちに固有の傷とは何だろうか。まずはそれを思い出さなくてはならない。
(『みちのく春秋』2015年夏号 所収)
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