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【短編小説】仏の眷属(けんぞく)

 あれは父の四十九日の法要のときだったから、よく覚えている。

 四ノ宮蒼子は四年ぶりに新潟の田舎に帰省した。帰省と言っても蒼子の実家は関東で、新潟の田舎は父が盆暮れ正月を必ず過ごす、生まれ育った懐かしい場所なのだった。

 つい先ほど、山の上の墓に、父の骨を埋葬してきた。心筋梗塞で倒れた父は、亡くなる直前まで健康体だったから、骨が丈夫で分厚く、妹とふたりでぎゅうぎゅうに押し込めるようにして、なんとか入れられたのだった。

 その様子が滑稽で、蒼子は自分でも笑い出しそうになるのをぐっとこらえた。先ほど寺で涙をぬぐっていた妹に、見咎められてはかなわない。

 墓の前に立つと、日本海が見渡せる。初夏の風が心地よく、海は凪いで陽光に照らされ、優しく煌めいている。

 二十年前に母の骨もその墓に納骨した。父はこの墓に入ることが悲願であったのだろう、愛する妻とともに、海を眺めていたかったことだろうと想像する。

 その墓が最高のロケーションにあるというのは認める。死んだら、高見からゆったりと海を眺めていたいと思うのは、人情ではないだろうか。

 天国も地獄も輪廻転生もないとするなら。ほんとうのことは、蒼子にもわからない。

 納骨を終えて、蒼子は山の中腹にある田舎の家に帰ってきた。お茶を飲みながら、懐かしい顔ぶれとおしゃべりをした。

 そこにいたのは、蒼子とその妹、妹の旦那と子供たち、家主である叔父と叔母、蒼子にとっては従兄妹に当たる、叔父の息子夫婦と娘がひとり。

 話題にあがったのはその娘(娘と言っても五十近いのだが)が近頃痩せた、というはなしだった。蒼子も久しぶりに会ってびっくりしたのだ。町子姉ちゃん、綺麗になったって。

 町子姉ちゃんはちょっと前に病気をして、入院していたらしいのだ。たいした病気ではない、と聞かされた。
 叔母もこんなことを言っていたくらいだ。
「最近、みどり屋の町子が痩せて綺麗になったと評判だて。」
 みどり屋は叔父と叔母が営む小売の酒屋で、町子姉ちゃんはそこの看板娘なのだった。

 それから女が集まって、ダイエット談義になった。町子姉ちゃんは、病気でちょっと痩せたはいいが、それをキープする自信がなく、よいダイエット法はないかと皆に訊いたのだ。

「食べたものを、その都度ノートに書きだすといいよ。」
 と蒼子が言うと、町子姉ちゃんは首を振る。
「そんなめんどくさいことできない。」
 町子姉ちゃんは誰がなにを言ってもめんどくさいと言って、結局よいダイエット法は見つからずに終わった。

 蒼子は、それでもいいじゃない、と思っていた。町子姉ちゃんは目がくりくりっと大きくて、年を取っても可愛らしい。のんびりと穏やかで明るい性格も、とても好ましい。みんなが大好きな町子姉ちゃん。

 だからそれでいいと思ったのだ。

 やがて楽しい時間も終わり、蒼子の妹夫婦と子供たちは近くの旅館に引き上げていったし、従兄夫婦は次の日仕事があるとかで帰って行った。

 叔父の家には、叔父と叔母、町子姉ちゃんと蒼子だけが残された。

 かつては大勢の親戚が夏に集まる拠点の地だった。ふるさとと言えばここだった。叔父のたくさんの兄弟たちも、ひとり亡くなり、またひとり。最後まで田舎に帰り続けた父も亡くなり、なんだか寂しくなってしまった。

 明るすぎる蛍光灯の下で、蒼子たちは食事を取った。新鮮なお刺身と、叔母が作った茶色い煮物がいくつか、揚げ物もあって、どれもとても美味しかった。

「しかし正守が先にいくとはね。あれは末っ子だったすけ、油断してたな。兄弟みんないっちまう。」
 叔父が寂し気に言う。

 七人いた兄弟も、いま残っているのは、施設にいる幸恵ばあちゃんと叔父だけになったのだという。そうか、もうそんなに死んだか、と蒼子は思う。

 食事が終わると後片付けや洗い物は、蒼子と町子姉ちゃんの仕事と決まっていて、それが終わると順番にお風呂だった。

 町子姉ちゃんは
「蒼子ちゃん、先入りなよ。明日、長旅なんだし。」
 と言ってくれたので、ありがたく、先に頂戴することにした。

 支度をして、脱衣所を開けると、鏡の前に綺麗な虫がいた。

 この家においては、どこに虫がいても不思議ではない。裏は山だし、叔母はエアコンが嫌い、網戸も嫌いなので、窓は夜まで開け放たれているのだ。

 食事時にカナブンやらセミやらが電灯めがけて入り込むのも当たり前だし、夜中に起きて冷蔵庫でも開けようもんなら、ゴキブリがパッキンの隙間を駆け抜けて逃げていく。

 虫だけでなく、蛙やへびだって、家のなかにいても不思議じゃないのだ。

 とにかく、脱衣所を開けると虫がいた。

 小さなかまきりみたいなその虫は、見たこともないような美しい黄緑色をしていた。そして鏡の前でポーズを決めて、いくら見ていても微塵も動かなかった。

(虫じゃなくて、虫のおもちゃなのかも。だって全然動かないし、こんなに綺麗なプラスチックみたいな色の虫、見たことないし。)
 と、蒼子は思った。そして
(お風呂入って、私が出てくるまで、ずっとこのままのポーズでいるか、見てみよう。)
 と決めた。

 蒼子はお風呂のなかでも、さっき見た虫のことを考えた。
(あんなに綺麗なんだもん。尊い存在だったりして。仏様の眷属けんぞく……? とか。)

 ふふっと笑ってから、鼻まで湯につかった。白濁したお湯は、冷えた鼻先を温めた。

 お風呂を上がると虫がまだいた。一ミリも動いていない。
(やっぱりおもちゃなのかな。なんだろ。不思議。)

 蒼子はそっと寝巻を着て、脱衣所をあとにした。

 タオルで濡髪を拭きながら居間に行ってみると、町子姉ちゃんがテレビを観ていた。

「お風呂あがったよ。どうぞ。」
 と言うと
「ドライヤー、使う?」
 と訊かれた。

「いや、いい。すぐ乾くから。」
「そう?」
 町子姉ちゃんはそう言って、お風呂に入りに行った。

 蒼子は入れ替わりでテレビを観るともなしに観ていた。

―――美しいと感じる脳の領域と、正しいと感じる脳の領域は、同じところにあるんです。―――

 そんな知的バラエティの学者の言葉を、聴くともなしに聴いていた。

 美しいは正しい。正しいは美しい。さきほど見た美しい虫のことを思った。

 あの虫が美しいから、正しいと思ったのだろうか。けれど、仏の眷属ほどに正しかったら、美しさを身にまとうのではあるまいか。

 そんなことを考えていた。

 蒼子がぼんやりテレビを観ているうちに、町子姉ちゃんがあがってきた。

「あれ、蒼子ちゃんまだいたんだ。」
「うん……。」

 蒼子は町子姉ちゃんのことを待っていたのだ。虫のことが気になって。

「脱衣所に虫いたでしょ?」
「うん、いた。」
「あれ、どうした?」
「潰した。」
 町子姉ちゃんは、残酷なほど即答した。

 そうだった。この家の娘に生まれたなら、虫ぐらいでいちいち騒いではいられないのだ。町子姉ちゃんにとっては、綺麗な虫なんて珍しくもなんともないのだろう。

 蒼子はちょっとがっかりしたが、仕方がないので、町子姉ちゃんにおやすみを言って、部屋へ寝に帰った。

 蒼子が町子姉ちゃんとまともに会話したのは、この夜が最後になった。


 町子姉ちゃんが病気だと妹から教えられたのは、その年の秋だった。

「悪性リンパ腫っていうガンなんだけど。」
 蒼子は妹に電話で告げられた。

「あくせいりんぱしゅ?」
 蒼子にとっては、その日、初めて聞く言葉だった。

「脳に転移もあって。」
「転移? 脳に?」
 なんだかよくなさそうな雲行きだった。

「お父さんの四十九日で新潟に行ったとき、町子姉ちゃん、病気明けだったじゃん。」
「そうだね。」

「そのときはわからなかったんだけど、実はそういうことだったみたいで……。」
 妹が言葉を濁した。

「……助からないの……?」

「う……ん……。あと三年ぐらいだって……。」
 妹は大きく息を吐いた。

 電話を切ったあと、蒼子はしばらく考えていた。町子姉ちゃんが死ぬかもしれない。

 目を閉じたとき、脳裏にちらついたのは、あの綺麗な虫のことだった。

 蒼子は虫を殺さなかった。仏の眷属かもしれないと思ったからだ。どうして町子姉ちゃんにその話をしなかったのだろう。町子姉ちゃんだって、そのことを知っていれば。

 いや、わからない。話したところで、どのみち同じだったのかもしれない。しれないけれど、けれどでも……。

 蒼子は後悔した。自分は道を間違えたと思った。

 もしくは、あるいは。蒼子は道を間違えず、町子姉ちゃんは道を間違えたのかもしれなかった。ほんとうのことは、蒼子にもわからない。


 翌年春の町子姉ちゃんの葬式に、人数の都合で蒼子は呼ばれなかった。葬儀に参加した妹から、事後報告があったきりだった。

 蒼子は思い出していた。町子姉ちゃんと過ごした、夏の日々のことを。

 ある夏の日、幼かった蒼子は、町子姉ちゃんに喫茶店に連れて行ってもらった。外食なんてとんでもない、という家に育っていたから、喫茶店に入ったのも初めてだった。

 妹も母もなぜかおらず、蒼子だけがいた。町子姉ちゃんは、まだ大学生ぐらいだったと思う。

 蒼子も、幼いながらに、町子姉ちゃんはたぶんそんなにお金を持っていないんだろう、と思った。

 古くて小さな喫茶店だった。冷房の風に混じって、海風のしょっぱい匂いがした。えんじ色の占いマシーンが、物珍しかった。

「どれでもいいよ。暑いからクリームソーダとかがいいかな。」

 町子姉ちゃんは言ってくれた。

 蒼子は写真のクリームソーダの、鮮やかな青にこころ惹かれた。ブルーハワイ味というのは食べたことがなかったけれど、ソーダのようにスッとするんだろうと思った。

 ブルーハワイ味のクリームソーダが、想像と全然違ったことに、蒼子はショックを受けた。でも町子姉ちゃんは、少ないお小遣いでご馳走してくれたのだ。残すわけにはいかない。

 蒼子はずっと、町子姉ちゃんが奢ってくれたブルーハワイ味のクリームソーダが好きになれなかったことを、申し訳なく思っていた。

 いつかどこかで会うことがあったなら、そのことを謝りたいと思っている。あの虫のことは……どうしようか、謝れるだろうか。

 いつかどこかで、会うことがあったなら。

〈おしまい〉


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