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【長編小説】六花と父ちゃんの生きる道 第三話 動き出した運命

第一話

第二話

 さて。買い物に出た六花は、徒歩三分の場所にあるコンビニに向かう。

 もう少し歩けば、賑やかな商店街があるから、そこで材料を買って料理を作ることもできるけど、そこには行きたくなかった。

 家々の庭から、キンモクセイの香りがほのかに漂ってきた。ああ、もうそんな季節なんだと六花は思う。

 一番強く漂っている家の傍で、六花は立ち止まってしまう。なんだか、包まれているみたい。

 甘く、優しく、媚薬の入ったような魅惑的な香りに、包まれている。

 こんな香りは、却って哀しい気持ちになるね。去年、この花が香った頃、お母さんは元気でいたのに。

 甘く、優しく、魅惑的な過去に捉われて、足が動かない。

 六花は一歩、歩き出した。甘くて優しい記憶を、思い出にするのは早すぎる。今日のことだけ。いまのことだけ。

 六花には、守らなければいけない父ちゃんがいるのだ。

 コンビニの前で財布を開ける。千二百三十五円。足りないな。

 六花はATMでお金を下ろすことにした。三万円もあれば、当面足りるはず。父ちゃんがいつまであのままなのかわからないけど。

 暗証番号は零六一二。父ちゃんとお母さんの結婚記念日だ。

 この銀行の口座には、もともとそんなにたくさんのお金が入っているわけではない。生活費用の、お財布代わりの口座なのだ。

 貯蓄用には、いくつか別の銀行口座があるが、六花はいくら入っているか知らないし、引き出すこともできない。

 家のお金を管理してきたのは父ちゃんで、金がもっと安い頃には金を買っていたらしいし、投資信託、というやつを少しやっていたり、マンションの部屋をいくつか持っていて、ひとに貸して賃料をもらっていたりするらしい。

 父ちゃんは、結構手堅くお金を動かしてきたのだ。

 意外なのはお母さんのほうで、気持ちの赴くままに、値段も見ないで買ってしまうひとだった。

 そんなお母さんの手綱を握っていたのは父ちゃんのほうだったけど、たぶん、結構ゆるめの手綱だったんだろう、と六花は思う。

 父ちゃんは、月の食費にいくらかかるのか、詳しく知らないと思うし、なによりお母さんのことが大好きなのだ。できるだけ、好きにさせてやりたいと思う気持ちもあったのだろう。

 六花はコンビニのかごを手に取ると、おにぎりを入れていく。

 父ちゃんの好きな鮭と昆布。六花の好きなツナマヨと明太子。サンドイッチの売り場に行くと、タンバク質が取れるバゲットサンドという文字が目に入った。迷わずそれも二つ入れる。

 ほんとは野菜も取らないとだめなんだけどな。サラダを買っても、きっと父ちゃんは手にしないだろう。

 レタスとハムのサンドイッチ、卵サンドをかごに入れて、レジに向かった。

 膨らんだエコバッグを持って外に出ると、白くて小さな犬を連れて歩いているひとに出くわした。

 可愛い犬なのだが、足が三本しかなかった。それでもその子は、そんなこと全然気にしていないように見えた。

 不器用な歩き方ではあるけど、外に出られて嬉しいよ、駆け出したいよと言わんばかりに、飼い主を引っ張っていた。

 そのエネルギッシュさに、六花は一瞬にしてこころ奪われた。生きているのが嬉しい、歩けるのが嬉しい。全身から喜びが溢れていた。


 突然、世界が有彩色に変わったように感じた。犬を連れていたのは、年配の女の人だった。

 六花が憧れの眼差しで、ぼーっと見つめている間にも、ひとりと一匹は、どんどん遠くに行ってしまう。六花はほとんど無意識に、ふたりのあとについて行った。

 犬と飼い主にだいぶ追いついたとき、六花は、はっと我に返った。

 この道は、商店街に続く道だ。アーケードの手前に横断歩道がある。お母さんが事故に遭った、あの横断歩道だ。

 六花の足は、一瞬止まりかける。でも意を決して、再び犬と飼い主の後を追った。いつまでも逃げているわけにはいかないのだ。

 横断歩道を渡る。向こう側、ちょうどアーケードの手前が、事故現場であるはずだった。渡り切ったその先で、六花は犬のことも忘れて立ちすくんでしまった。

 歩道の内側に、花が供えられていたのだ。白に、ほんの数本黄色の混じった菊の花束。

 誰が供えてくれたのだろう。献花はまだ新しかった。

 父ちゃんがやったとは考えにくかった。なにしろずっとあの調子なのだ。近所のひと? 友達のお母さん? 先生?

 「加害者家族」……。思い至って、六花は心臓がすうっと冷たくなっていく感覚を味わった。間違いない。加害者家族のだれかに違いない。

 裁判事の一切は、叔母さんが引き受けてくれているので、六花はそのひとのことを、その家族のことも知らない。ひとを事故で殺してしまったら、そのあとどうなるのかも、よくわかっていない。けれど。

 六花は無意識に、菊の花束を掴むと振り上げていた。自分がものすごく恐い顔をしているのが、見ないでもわかった。

 こんな、これっぽっちのことで、罪が許されると思うのか! いくら毎日献花しようと、いくらたくさんのお金をもらったところで、お母さんは二度と帰ってこない!

 どれだけのことをしてもらおうと、絶対に絶対に許さない!

 その瞬間に、六花の胸がちくりと痛んだ。ひとを傷つけてしまったこと、泣かせてしまったこと、惨い言葉で絶縁してしまったこと。六花にだって経験がないわけではなかった。

 やらかしてしまったことの、罪の意識と苦しみを、取り返しのつかない哀しみを、子供ながらにも知っている。

 殺すつもりもなくひとを殺めてしまったひととその家族の、絶望と苦しみは計りようがない。

 きっと縋るような思いで、祈るような思いで、六花や父ちゃんが知らぬ間にも、毎日花を供え続けている誰かのことを、慮らないわけにはいかなかった。

 六花は振り上げた手を下ろし、菊の花を元通りに供えなおした。ごめんね、お母さん。私には、復讐なんてできそうにないよ。

 六花は手を合わせ、深々と頭を下げた。そして商店街のアーケードに向かう。三本足の犬はとうにどこかに行ってしまっていたけど、六花は気にしなかった。


(第四話につづく)

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