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中村英代『摂食障害の語り』と主体の震え

先月、摂食障害学会に参加して、とあるシンポジストの発表を聴いていたら、心理教育資材の参考文献として、中村英代『摂食障害の語り:<回復>の臨床社会学』も挙げられているのが目に留まった。
この本はタイトルの通り、社会学的研究の成果ではあるが、たしかに、臨床の現場においても示唆に富むものであると思う。
https://www.amazon.co.jp/dp/4788512513
出版社サイト:目次など https://www.shin-yo-sha.co.jp/book/b455748.html
著者のサイト https://www.hideyonakamura.com/

本書について

本書で中心となる問いは、「人はどうして摂食障害になってしまうのか?」ということよりも、「人々はどのように摂食障害から回復しているのか?」ということのほうにある。
中村は、18名の摂食障害からの回復者へのインタビューをもとに、「人々の生活世界での回復という経験」(p4)――「治し方」というより「治り方」――をたどり直し、「当事者たちにとっての<回復>」(p5)――ここで中村は「医学的な定義での回復」と区別するために、山括弧つきの<回復>と表記している――を描き出そうとしている。

本書以前にも社会学の領域において、摂食障害の当事者にインタビューした研究は複数あるし、回復のあり方まで考察しているものもこれが初めてというわけではないだろう。
しかし、「社会」とあわせて論じられる際には、往々にして、その「語り」をジェンダー論やメディアの影響といった解釈枠に引き寄せ、解決策として家族主義批判やフェミニズム、メディア批判が展開され......といったストーリーに収まりがちだ。
その点、本書は、そういった特定の「社会的」な視点にはなるべく依らずに、よりミクロな場面に目を凝らし、いま・ここの生、生活における<回復>への軌跡を記録している。
本書が治療者の立場からも共感できる点が多いのもまた、そういった具体性を持った言葉で語られているから、というのは大きいかもしれない。

治療者の側から読む 〜 還元モデルから相互作用モデルへ

「ミクロな場面に定位する」ということは――それはすこぶる<臨床的>なことでもある――、単純な因果論に則って発病の「原因」を説明したり、その原因を取り除けば解決するかのような短絡的な「治療」を提案したりすることとは、大きく趣を異にする。
中村もまた、摂食障害を「遠い要因(幼少期の母子関係や女性をめぐる規範の矛盾など)や深層の原因(無意識や心理的ストレスなど)の表れ」として捉える「還元モデル」に対し、人と環境の相互プロセスに着目した「相互作用モデル」を提案している。

摂食障害という状態が何に由来するのか、なぜ維持されがちなのか、どのように回復がもたらされるか、という一連のプロセスを考えた場合、「還元モデル」のように遠い要因や深層の原因を遡及的に推測するよりも、まずは、いまのこの状態を組織している行為の具体的な連鎖に目をやるべきなのではないか。
摂食障害という状態は、ファッション雑誌を読むこと、体重計に乗ること、ある日の食事を抜くこと、過食をした後に嘔吐をすること、といった日々のひとつひとつの行為の連なりによって、パフォーマティヴに形成され、維持されているものだからだ。(p260)

このような「相互作用モデル」的な視点は、日々、実際に摂食障害の患者を診ている治療者もまた、おおいに共感できるところだろう。
たしかに発病に至る過程でも、回復の途上でも、家族その他の人間関係や、メディアなどの情報の影響等々は無視できない要素ではある。しかし、患者・家族や治療者が「原因探し」に邁進し始めると、逆に治療が滞ってしまうことがしばしばだ。

摂食障害治療において治療者は、「深層」に目配せしつつ掘り下げながらも、「表層」としてのこの<身体>という場において繰り広げられるパフォーマティヴな治療的関わり――患者にとっては抵抗感でしかないような行動療法なども含め――を続ける必要がある。
他のどんな精神疾患にも増して大きく隔たる両極端を見据え、束ねながら進めていかねばならないのが、摂食障害の治療なのだ。
「相互作用モデル」という視点は、こういった臨床の場において、ひとつの見取り図を与えてくれるだろう。

通底するメッセージ 〜 主体の震え

とはいえ、そんなふうに、あわてて本書を「役立てよう」などとする前に、まずは、本書に一貫して流れるメッセージに耳を傾けることが大事かとも思う。
それは、摂食障害からの回復途上にある人、回復なんてまだ想像すらできないような人、あるいは、摂食障害かどうかはともかく、何かしらの生きづらさを抱えている人々への、静かなエールだ。

本書では、個々人のトラブルが生み出される過程だけではなく、トラブルが解消される過程にまで考察の範囲を広げた。すると、当事者たちは抑圧されるだけの存在ではないことが明らかになった(…)。当事者たちは「摂食障害から抜けだすことを困難にする社会的な力(権力)」を跳ねのける力ももっていた。
また、専門家の解釈に沿って自己物語を構成し、その物語を生きる時期があったとしても、彼らはそこに留まり続けるわけではなく、自ら新たな物語を生み出していく存在でもあった。
社会学は、抑圧された人々の苦しみを公にしていく作業に、長らく取り組み続けてきた。しかし、人々が社会的な力から自らを解放していくプロセスをとらえ、彼らの知恵と実践を公にしていくことも、社会学の重要な課題だ。そして、本書が着目したいのは、個々人がもつ解放へのパワーと実践である。
さて、摂食障害者は、専門家によって分析され、考察され、治療される「対象」であったことは確かだ。しかし現在、摂食障害の経験者は、セルフヘルプ・グループをつくったり、摂食障害に関する本を出版したり、摂食障害の治療者になったりと、いろいろな領域で活躍し始めている。(…)回復者たちは、自分たちが経験した摂食障害を自分たち自身で分析し考察することに乗り出しているのだ。(p225)

中村が本書の元となる調査をしてから20年近く経つのかもしれないが、今日では、Instagramや旧Twitter等々、当時にも増して、摂食障害をめぐる言葉や映像が当事者から発信されている。
ポジティブなものも、ネガティブなものも。回復者によるセラピー的なものから、「カショオ」や、骨格の浮き出た写真など、摂食障害のリアルを知らぬ人が見たら眉をひそめたくなるようなものまで。
しかし、他の当事者らが、そのような発信に触れることでどのような影響を受け、どのような可能性をつかみ取ることができるのか、それは容易に予測できるものではあるまい。

中村は、<回復>を論じるにあたり、当事者の主体性をあらわす概念として、「再請求」「解釈権」「解決権」の三つを挙げた(p240~)。
病む者が奪われてきた声を請求し、自分自身の声を見だしていく「再請求」。自らの病気に対して強要されている否定的な解釈を、社会的な文脈から捉えかえす「解釈権」。そこに中村が新たに付け加えたのが、当事者自らが問題を解決する権利、すなわち「解決権」である。

自らの声を(再)発見し、自らの言葉で語り、そして、自らのためにアクションを起こすこと。
そこに摂食障害からの<回復>の可能性を見出している。

しかし、だからこそ、中村は、安易な「主体性」の称揚が、「いまだ病いに苦しんでいる人々は、回復できるのに回復しようとしない人」などといった物言いとともに、容易に「自己責任論」に絡めとられてしまう危険についても、十分に注意を払っている(p250)。
終章の結びにもまた、そんないたわりに満ちた眼差しを感じさせる言葉が綴られている――

どのような物語も、「硬直的にものごとを規定する種をまく」可能性から逃れることはできない。
混沌と混乱のうちで苦しんでいる摂食障害者にとって、もし適切な文脈もなく唐突に「食べれば治る」という言葉だけが投げられたら、それはなんと抑圧的なことだろうか。普通に食べられないから苦しんでいる、というのに。
さらに、いままさに苦しんでいる人に本書を突きつけ、回復者はこんなにたくさんいるじゃないかという言葉が投げられたら、苦しむ人は、さらなる苦しみへと追い詰められていくだろう。希望がないことと同様に、無理に希望へと追いやられることもまた、文脈次第では、人々に大変な苦痛を強いることになる。
いま苦しみを抱えている人はみな、過食や嘔吐をやめることもできるし、やめないこともできる。希望をもつこともできるし、希望をもたないこともできる。過食や嘔吐がなくなった後も、自分を悩ませるすべての問題が解決して一気に楽になるわけではない。逆に、過食や嘔吐をしながらだっていまを楽しむことはできる。
そうした<いま・ここ>の連なりの先に、新しい地平がふっと現れてくることはよくあることだ。いま見えていないものを信じることは難しいから、ひざを抱えてカタカタ震えているしかない時もある。
それがとても長い時間であることもある。けれど、時間や他者や目の前に新たに起こる出来事は、私たちを思ってもみなかった場所へと運んでいく。予想のできない方法で。だからこそ<回復>を理論化しつくすことはできないのだ。一気に何もかもが楽になる方法などないが、小さな跳躍はあちこちにある。
計量的な社会科学の言葉では説明が難しいような展開が、そういう場所では、日常的に起こっている。
たとえばそんなふうに、つねに開いた風通しの良い場に、拒食や過食という行為をおいてみるのはどうだろうか。
行為そのものが変わらないとしても、この行為が私たちにもたらす意味やもたらす感覚が変わるかもしれない。意味が変わり、感じ方が変われば、行為の重みも変わる。すると、新しい視界が開け、何かが動き始める。怖いものはやはりどうしたっていまは怖いと、恐怖と苦しみに苛まれながらしばらくは過ごすかもしれない。あるいは、それまで重かったものが意外と軽く感じられるようになるかもしれない。(p268)

この一節を読んでいると、これまで自分が診てきた患者たちの表情、言葉、そして、治療の過程でおとずれた様々な出来事――好転もあれば、「不幸な転帰」もある――がおのずと思い出されてくる。
ひょっとすると、かつての中村自身の姿も――本書の冒頭で自らも<回復者>であることが語られている――重ね合わされているのかもしれない。
リリカルな表現のなかにも、そんなリアルな機微がここにはある。

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