摂食障害と<食卓>、そしてcompanionship
児童精神科医・滝川一廣はその昔、数編の摂食障害に関連する論稿を執筆しており、それらは論文集『新しい思春期像と精神療法』におさめられている。
その中で最も印象的なものが20代の若書き、処女論文の「<食事>からとらえた摂食障害――食卓状況を中心に」である(1976年初出)。入局1年目で経験した5症例をもとに、それぞれの家庭の食卓のあり方に注目しつつ、その病理から治療まで考察している。
口論の絶えぬ食卓、インスタント食が並ぶ食卓、会話を禁じられた食卓、皆がそろうことなくバラバラに摂る食卓…...。「本来安らぎと安心の場所であるべき食卓で、対人緊張がかえって高まるという逆説」。
どこの家庭にもありえそうな、そんな日々の食卓だとしても、それが「いわば慢性の擦過傷のような「心の傷」となっていないだろうか」――そう滝川は指摘する。
それは家族や食卓に摂食障害の「原因」を求める、といったことではない。
そんな<食卓状況>のうちに、「言語化されにくい家族間相互の微妙な〈あや〉」と摂食障害という病いとの相互的な関係性が、凝縮したかたちで表象されているのではないか、ということだ。
思春期とは――友人、学校、部活等々の事情の中で――家庭の〈食卓〉から少しずつ離れ始める時期だが、「摂食障害の発症は、まさにこの時期と重なる」。そして、摂食障害に至った患者は、「〈食事〉がうまく受け容れられない人であるが、同時に、家庭の〈食卓〉からうまく離れてゆくことのできない人でもある」。
〈食卓〉との/における関係性の変容、アンビヴァレンツとしての摂食障害というかたちが、そこに浮かび上がってくる。
食べる場に留まりつつ食べないこと。
この拒食という行為について「成熟拒否」「退行」「疾病利得」、はたまた「ハンガーストライキ」などとみなされることまであるが、そういった見方に回収することには無理がある。たしかにそう理解できる部分、ケースがあることは否定しないが、それはあくまでも部分的な一面にとどまるだろう。
拒食自体を「他者に向けたメッセージ」であるかのように捉えてしまうことでの誤解は少なくないように思う。
〈食卓〉の外部へと踏み出すことができぬまま、〈食事〉そのものから撤退してゆき、それがまたさらなる居づらさ、いたたまれなさにつながる、という悪循環。
それはただ単に、状況に為されるがまま、ということを意味するわけではない。身を縮こまらせ、細く律しながらも、そのことのうちに、精神の自由を、高揚を、外部への出口を探しあてようとしてもいるのだ。
それは、<食卓状況>そのものの結果であるとか、<食卓状況>への反抗であるというよりも、<食卓状況>自体のネガのようなものかもしれない。
では、このような事態から抜け出すには、どうすればよいのか。
この滝川の論文のなかで目を引くのが、高校生男子の症例の治療についての記述である。滝川は、毎回面接前に病院近くの外食店でその患者と昼食を共にし、それが治療的な効果を持ちえたのだという。
いかにも駆け出しの精神科医らしい青臭さと、それを許容しえた「時代」とを感じさせるような、今日では容認しづらい「治療」のエピソードである。
とはいえ、これは、摂食障害に至った者がどのように回復のきっかけをつかむのか、ということを理解する上でヒントにはなるだろう。
回復の過程においては、誰かしら伴走してくれる存在(companion;コンパニオン、仲間 )が——それが狭義の治療者か、家族や友人か、といったことは問わない——しばしば重要な役割を果たす。
(日本語での「コンパニオン」という語には、特定の接客業的なイメージが染みついてしまっているので、ここでは「companion」とそのまま表記しておこう)
そして、即物的に映るかもしれないが、人とともに食べることに病む者が癒されるのもまた、人とともに食べることにおいてであったとしても、不思議はない。そのような体験を通じて、〈食卓〉の外部において〈食事〉を受け入れることができるようになってゆく、成長と回復とが促されてゆく、という可能性。
ただし、摂食障害の患者の多くは、人と一緒に食事をすることためらい、避けがちだ。だから、良き companionとは、一緒に食事をしてくれるだけでなく、一緒に食事をしたくないときにはそれも受け入れてくれる、そんな存在のことであろう。
「companion」という言葉は、語源をたどると、「ともに(com-)パンを(panis)食べる」という意味であるという。キリストの身体を意味するパンを分かち合う教会の礼拝に、そのままのかたちで見出されるように。
この語源的な意味にならうならば、companionは「同じ釜の飯を食う仲間」と単純に同義とは言い難い。companionとは、自分たちの存在を超えたものについての経験を分有するような仲間、とでも言うべきものである。
そして、摂食障害をもつ人の傍らにいる人たちもまた、このような意味での「companion」であることだろう。
文字通り一緒に・同じものを「食べる」ことだけが大事なのではない。恐怖感と拒食、焦燥と過食、食と情動のあいだで、どこに向かうのかいまだ見えないという経験、経験しえないものの経験を分かち合っているということ。それこそが「 companion」にふさわしい、と言える。
精神医学・心理の領域では、よく「治療同盟」といった言葉を使う。これは、治療者と患者が治療に取り組んでいくにあたって、ともに協力してゆけるよう関係性を構築してゆくことを意味する言葉である。
でも、自分はこの「同盟 alliance」という語の語感が苦手だ。そこには、それぞれに十分に自立した二者が、互いにとっても明瞭な契約内容を確認し合い、サインするかのような、ビジネスシーンすら思い浮かんでしまうような響きがあるからかもしれない。
そして、患者と治療者との間の協働がきわめて重要な局面ほど、このようなシーンからは程遠いというのが実際でもあるだろう。
患者も、治療者ですらもまだ先が見えない、混沌とした寄る辺ない状況で、まずはそのこと自体を共有するところから始めざるをえないということがある。
このような、専門職か否かに関わらず、セラピューティックなプロセスの根底にある<協働>をあらわすには、allianceよりもcompanionshipこそが適切な言葉となるだろう。
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