台湾花蓮県「吉野村」と徳島県、そして四国八十八箇所の深い縁
去る12月3日(火)で閉幕した国立民族学博物館の企画展「客家と日本――華僑華人がつむぐ、もうひとつの東アジア関係史」の会場で、興味深い事実を知ったので、忘れないうちに書き留めておこうと思います。
◆台湾の官営移民村
清朝の領土だった台湾は、日清戦争後に締結された下関条約により、1895年から日本の植民地となりました。
統治機関となった台湾総督府は当初、軍事行動を前面に出した強硬な路線を取ったこともあり、それに反発する現地の華人や先住民(高砂族・高山族)による武力抵抗に手を焼くことになりました。
それでも、10数年後には武力を伴う抗日運動をあらかた抑え込み、植民地経営のための次のステップとして台湾の産業の発展を模索するようになりました。
産業の発展のために採られた政策の一つが、官営の移民村を設置することでした。
台湾総督府は各地に官営の移民村を設置し、日本内地からの移民を入植させて開拓に当たらせたわけですが、そのうちの一つが東海岸の花蓮港庁花蓮郡(現在の花蓮県)に開かれた「吉野村」でした。
◆徳島県人が開拓した「吉野村」と同村の「ミニ四国八十八箇所」
「吉野村」は台湾における初期の官営移民村のなかでも代表的な存在でした。「吉野」の地名は、移民の多くが徳島県の吉野川流域出身者だったことに由来します。
以下リンクの論文によると、吉野川上流域の三好郡から下流域の板野郡、さらには吉野川の流域から離れた南部の那賀郡・勝浦郡まで、徳島県内の実に幅広い地域から「吉野村」への移民が集まっていたようです。
【参考】荒武達朗「明治末年徳島県における台湾移民の送出ー北海道、朝鮮そして台湾ー」徳島大学総合科学部
https://repo.lib.tokushima-u.ac.jp/files/public/11/113897/20191105154730687185/civ21_38_31.pdf
はるばる海を渡って台湾東海岸の未開の地にたどり着いた徳島の農民たちは、害虫や毒蛇、風土病、さらには先住民の抵抗に悩まされながら、日々農地の開墾に励みました。
多大な苦難を伴う開墾作業の結果、大正末期には立派な耕地を作り上げ、新種の米を開発、さつまいもやサトウキビ、バナナ、葉たばこといった商品作物の栽培にも成功し、「吉野村」はいつしか官営移民村の成功例として評価されるようになっていました。周辺に住んでいた客家人も、「吉野村」で小作農などとして働くことになりました。
「吉野村」の人口は1919年時点で1,694人。
村内には学校、診療所のほか、開拓移民の心の拠り所として神社(吉野神社)や仏教寺院も建立されました。
仏教寺院について言うと、「吉野村」の移民には浄土真宗、真言宗の門徒が多く、このうち四国霊場(四国八十八箇所)の札所23箇所が位置する徳島県からの移民のなかには、真言宗を篤く信仰する者がそれなりに多かったのではと思われます。
このような経緯から、「吉野村」には「真言宗吉野布教所」という真言宗の寺院が建立されました。
布教所の境内には、徳島県出身の移民たちが郷里を偲んで、四国霊場の各札所の御本尊になぞらえた八十八体の石仏を安置した「ミニ四国八十八箇所」(写し四国)が建立されたといいます。
◆戦後80年近くも続く「吉野村」の台湾人と日本人の絆
1945年、太平洋戦争での敗戦により、50年に及んだ日本の台湾統治は終焉。台湾の施政権は中華民国に移ることになりました。
すでに、現地で生まれた入植2世(湾生)が半数近くを占めていた「吉野村」の日本人たちは、中華民国政府に対して「今後も台湾に留まりたい」旨の在留嘆願書を提出しましたが、この望みが時の陳儀行政長官に聞き入れられることはありませんでした。
最終的に「吉野村」の日本人は、翌1946年に正式な引き揚げ命令を受け、許可された最低限の現金と荷物のみを携えて、日本本土に引き揚げることになります。
日本人が去った後の「吉野村」は、日本色の一掃を進めた中華民国政権により「吉安郷」という地名に改められました。現在も「吉安郷」・「吉安駅」といった地名、駅名が残っています。
また、日本人が引き揚げて無人になった「吉野村」には、新たに客家人が移り住んだといいます。
意図せぬ形で日本の統治が終わり、日本人が全て立ち去ることになった「吉野村」改め「吉安郷」。
しかし、そのような変化の中でも、先に述べた「真言宗吉野布教所」はその名を「吉安慶修院」と改めたものの、引き続き真言宗の寺院として台湾の人々に丁寧に管理され、1997年には中華民国の「国家第三級古蹟」に指定されました。「吉安慶修院」には、今も日本からの観光客の来訪が後を絶たないといいます。
「吉野村」の開拓が縁で、吉安郷と徳島市は2019年に友好交流協定を締結。
2024年4月3日に発生した花蓮地震で、「吉安慶修院」の堂宇や石仏が被害を受けた際は、NHK徳島放送局のローカルニュースでも報道があったといいます。
◆おわりに
小生自身、花蓮の地に切り拓かれた日本人移民村である「吉野村」の存在については、以前から書籍などを通して心得ていましたが、この村が四国霊場のふるさとである徳島県の吉野川流域からの移民の人々によって築き上げられたという事実については、不覚にも今の今まで存じ上げませんでした。
己の不勉強について恥じるのはこれぐらいにしておき、ありとあらゆる物資が乏しく情報の入手手段も限られていた時代に、日本本土とは全く気候も風土も異なる台湾東海岸の土地で、風土病や抗日ゲリラの恐怖と戦いながら開墾作業に励んだ先人たちの努力と業績は、現代の日本人として今一度心に留めておかねばならない事柄ではと思います。
そして苦難の日々の中で、人々を支えたのが、神道や浄土真宗、そして真言宗といった祖国から持ち込んだ信仰であったことも忘れてはなりません。
長くなりましたが、今回の国立民族学博物館での企画展で、台湾と四国、四国霊場の意外な接点に触れることができたのは、今一度自分の専門分野についての知識を洗い直す良い機会になったと思います。
余談ですが、日本各地には気軽に四国に巡拝に行けない人のため、四国八十八箇所霊場を模した「写し四国」と呼ばれる巡拝コースが数多く存在しましたが、当時日本の統治下にあった台湾にも「台北新四国八十八ヶ所霊場」という巡拝コースがあったといいます。
この巡拝コースについても、いつか機会があれば考察してみたいと思います。
【参考記事】NOBU@台湾ウォーキング様