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道筋を敷き、勇気を与えるこの2冊を読まないのは損している。【直感と論理をつなぐ思考法】【ひとりの妄想で未来は変わる】


最近読んだ2冊の書籍が、ココロに刺さり倒しました。黒ひげ危機一発もびっくりの刺さりっぷりです。私の行動を180度変容させてしまったこの本の持つチカラを多くの方に共有したい。

とは言いながら、今から記すのは冷静な書評・講評ではありません。私の溢れる想いの奔流をひたすら垂れ流す文字列です。買う前にどんな本か知りたいからアウトラインを教えてくれ?

あらすじなんて紹介しませんよ。買いなされ、ぜひとも買いなされ。

そんな、極端な物言いから始まったこの記事ですが、紹介するのは以下の2冊。

☆直感と論理をつなぐ思考法 VISION DRIVEN
☆ひとりの妄想で未来は変わる VISION DRIVEN INNOVATION

※以下、直感と論理をつなぐ思考法は「直感と論理」。ひとりの妄想で未来は変わるは「ひとりの妄想」と略させていただきます。

著者は佐宗邦威さんという方です。この方の「21世紀のビジネスにデザイン思考が必要な理由」を読んでから、勝手にお師匠様認定をさせていただいています。もちろん面識などございません。勝手に私が崇めているだけです。

☆21世紀のビジネスにデザイン思考が必要な理由

今回の2冊は、前著以降の実践をとおして佐宗さんが気付いた「デザイン思考」の限界をふまえ、私たちが見るべき新たな世界を提示してくれるものです。

まず前提としてお伝えしておきたい。単なる啓発本や技術本といったレベルを遥かに超えたところにこの2冊は存在します。

もう、「くすぶる想いに火をつける」という表現では物足りないのです。ちょろちょろとした火種だったところに着火剤をブチ込み、ガソリンをぶっかけ、ダイナマイトを放り込むような2冊です。ええ、買いなされ、ぜひとも買いなされ。

前置きが長くなりましたが、私がこの2冊から受け取ったモノを少しでもご紹介したいと思います。少しでも、と言いながら長文になりそうな空気をこの段階で私自身が感じているのはご愛嬌として受け流していただけると幸いです。


2冊を繋ぐキーワード「妄想」


この2冊には頻繁に「妄想」というワードが出てきます。一般的なイメージではビジネスの世界に存在することを許されないワードでしょう。しかし「妄想」が重要であるということをこの2冊は雄弁に語ります。

なぜ妄想が重要なのか。

かつてビジネスの世界を席巻していた他人モード戦略に機能不全が起こり、個人の内発的動機が重要視される時代が到来しています。そのような現代では、妄想から思考をはじめ自分モードのアクセルを踏みっぱなしにすることが全ての起点であり、世界を変える原動力となるからです。

端的に「希望」を感じる言葉でした。

普段から様々なアイデアが浮かびはするものの、「どうせつまらないから」「実現するはずがないから」と打ち捨ててしまい、アイデアをアウトプットすることすらしない。

そして、自らのうちに宿った火種が消え・忘れ去ってしまうということを繰り返していた。そんな私にとってはもう、目から鱗です。

いや、目から鱗というありきたりの表現では足りません。一枚こっきりの鱗ではなく、次から次へと鱗がボロボロと落下し、気付けばウロコマウンテンを形成している。

うわぁ大量の鱗だぁ…と思っていたら、最後には鱗どころか目ん玉そのものがボロっと落ちてしまったのです。まえがみえないよぅ。ゴホン。

「直感と論理」は「個人が妄想を育み、人間らしく生きながらも世界を変えるための方法論」をくすぶる個人に対して語っています。一方「ひとりの妄想」は「妄想を実現するために発生する既存組織・概念の打破に向けたロードマップ」を組織に対して語っていると言えるでしょう。

ですが、この両者は相互に関係しあう内容になっているので2冊セットで読むことを極力推奨します。


2冊を読んだ人にしか分からない私の解釈/「直感と論理」編


ここからは、実際に読んだ方にしか分からない内容です。未読の方には意味が分からないでしょう。私はソレを懇切丁寧に解説し興味を持てるように!ということなど考えていません。ただただ素晴らしいから買いなされ、買って読んでから考えろというスタンスです。

さて、このイラストは「直感と論理」のなかにあったものです。自身のカメラで撮影したものなので、掲出がマズいという場合にはご指摘ください。ここで見なくとも、ネット上の取材記事などで見ることができますので、未読の方は検索してみてください。

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「直感と論理」にこんな一節があります。

トランジションのときというのは、一時的に周囲から認められなくなるタイミングでもある。そうした厳しい環境になって初めて、周囲に影響されない自分のビジョンや価値尺度を見つめ直せるのだろう。

イラストを見ると、ビジョンのアトリエは「目に見えない地下世界」と表現されています。そう、現実世界にぽっかりと空いている穴に飛び込まないとビジョンのアトリエには辿り着けません。

だから、ビジョンのアトリエはカイゼンの農地、戦略の荒野、デザインの平原の住民たちからは中が覗けないのです。

覗けない、分からない、つまりビジョンのアトリエで実践されている行為を評価できない。なるほど、「トランジションのときは周囲から認められなくなるのは当然だな!」と腹落ちするのです。

分かりやすくイメージ化された表現、丁寧に紡がれた言葉が自分の細胞になっていく感覚と言えるかもしれません。

このように、対話型の読書を容易にできるような書籍です。

実際、「対話するように読む」という方法論は読書術に関する書籍等で推奨されています。しかし、私は「対話しやすい書籍」と「対話しにくい書籍」があるとも感じています。「直感と論理」はとても対話がしやすい。

書かれていることに対して連想スイッチを入れて「〇〇ということが書かれているが、△△ということかな?」という書籍の外に思考を巡らせることが非常に容易なのです。実際、読書しながら書いていたメモは膨大なモノになってしまいました。

ちなみに私が普段メモやアイデアを記録しているのは書籍内でも紹介されていたオキナのプロジェクトペーパーです。

このメモの良さは「切り離しやすさ」にあると思います。よくあるような切り目がキタナくなってしまうという経験がほぼありません。アイデアを書いては切り離し、並べて見るのに適しています。

話題が逸れてしまいましたね・・・さて、そのメモの中から幾つか「私の対話」をご紹介します。

例えば、「右脳的なものに対するアレルギー反応を示す人が多い」という指摘がありました。これは、美術・アートを行為ではなく技法として評価する文化や教育が原因ではないかと仮説を立てることができます。「絵の上手さ」を評価する美術教育などは最たるものでしょう。

また、「シンプルで分かりやすい世界が視野を狭くする」という指摘の代表例としてウェブ上のターゲティング広告が挙げられていました。ということは、逆に新聞の価値が再評価される時代が近いうちに来るのかもしれません。

新聞の良さは「自分が興味を持たない情報」であっても毎日半強制的に視界へ入れてくることだと思います。読む・読まないは個人の選択ですが、視界に入れるという点でパーソナライズされた電脳空間よりも優位性が出てくるのではないでしょうか。

あるいは、イメージと言語を結び付け意味づけするトレーニングが紹介されていました。これは、ちょっと驚く方向に発想が飛躍したのですが「写真で一言」が良いトレーニングになるのではないかと感じました。ほら、テレビ番組のIPPONグランプリや一人ごっつ(古い…)で実践されていたモノです。見たことないでしょうか?

これは内発的動機が存在するものではありませんが、イメージに対して「笑い」へと繋げる思考のジャンプを瞬間的に発生させようとする試みです。これを繰り返していれば、私たちの思考は軽やかになるのかもしれません。

もしかするとネット上の写真でボケるboketeというサイトすら、ビジョン思考のトレーニングとしては有用なのかもしれないと感じてしまったのです。(個人の見解です)


2冊を読んだ人にしか分からない私の解釈/「ひとりの妄想」編


「直感と論理」は、現代社会のなかで「妄想」というテーマを扱うことによる唐突感を避けるためか、丁寧にその理由を解説していたように感じます。

対して、「ひとりの妄想」は一言で表現するなら「英雄譚」を読んだときのような読後感があるものでした。

言葉の端々に半ば諦めの境地にあるような私たちを奮い立たせるような表現が散りばめられ、勇気を沸き立たせてくれる一冊になっています。

もちろん、その背景にあるのは実践に裏打ちされた確かなメソッドです。既存の硬直した組織体のなかで、いかに妄想の種を見つけ・育て・社会に展開していけばよいのか。あらゆるシーンで想定される事態に対する、実践知と対策・推進方法をメソッド化して紹介してくれています。

しかし、単にそのメソッドを紹介するような表現では決してないのです。「お前が諦める必要など何一つない」と強く語り掛けてくれている、読み進めるにつれて勇気を与えてくれるような表現なのです。なぜだか松岡修造氏が頭をよぎりました、「諦めんなよ!」。

なんだろう。この書籍を貫いているマインドに、私たちの世代を虜にしたドラゴンクエストやファイナルファンタジー的なマインドを感じます。ヒーローズジャーニーならぬドラクエジャーニーです。

ちっぽけな存在だった勇者が仲間を集め、伝説の武器を探し、魔王に挑む。ちっぽけな妄想の種を見つけて育て、仲間を募り、妄想を育てる場と手法を駆使して、革新を巻き起こす。なんだか似た雰囲気を感じるなぁ。分かるかぁ。自分だけかなぁ。

と、思っていたところ佐宗さんのツイートにギガデインだドラゴラムだというフレーズが出てきて、なんだか勝手に腑に落ちてしまっています。(そんな意図は皆無かもしれませんが)

でも、ただのドラクエじゃなくてダイの大冒険をイメージしてのツイートだったみたいです。

いやぁ、私は36歳なんですが超ストライクですね。ポップが持つアバンのしるしが「勇気」を示していたとか、マァムとレオナが妙にエロくてドキドキしたとか、マトリフやブロキーナみたいなジジイがやたらとカッコイイとか、北の果てにいたニセ勇者とか、いくらでも語れそうな気がしますが・・・ゴホン。

いや、勝手に私がそんなエッセンスを感じていただけなんですけどね。しかし、「ひとりの妄想」の方にはドラクエ的な、あるいは冒険譚・英雄譚的なエッセンスを感じてしまっています。こんばんは、深読みし過ぎ太郎です。


2冊からはじまった、私の行動


私はフリーランスのプランナーです。だから、ある意味で組織を対象にした「ひとりの妄想」をそのまま活かすというシーンは少ないのかもしれません。

しかし、この2冊が組み合わさったがために「強い動機」と「行動せずにはいられない情動」が発生したのだと感じています。組織人で無いからといって「ひとりの妄想」が活きないというわけではないでしょう。現に、クライアントの長期経営計画策定をサポートをするような案件も抱え、ここでは「ひとりの妄想」の実践知が生きています。

さて、現在の私はフリーになって3年が経過したところです。実は、1年目~2年目は順調でしたが、同時に自身のビジネスモデルに持続可能性が無いことも気付いていました。

そこで、3年目つまり2019年に転換を図ろうとしてコケるのです。今もコケたまま、完全に起き上がるには至っていません。ある種のトランジションを図っているタイミングだとも言えるでしょう。

そんな状況で、昨年一年間のくすぶり具合はハンパではないのです。ええ、自慢することじゃないのですが、そんなことを自慢げに語ってしまうぐらいのくすぶり具合です。

実践しようとしているコトがなかなか伝わらない。当然ですよね、既存の価値観にある人たちに既存の価値観とは異なるアイデアを投げかけていたのですから。もっと違う世界に出ないといけなかったことにも気づかず、ひたすらくすぶっていました。

そんなタイミングで、この2冊に出会ったのです。早速、行動に出ました。仲間探し。そして、自分が抱える山のような妄想のアウトプット。その他にも自分の妄想を基点にした行動量が圧倒的に日常生活のなかで増加しています。

「直感と論理」で表現するならば、私はビジョンのアトリエにおける「妄想の部屋と知覚の部屋をバタンバタンと往復しまくっている状態」と言えるかもしれません。

それだけ、妄想の数が沢山あるのです。どの妄想が自分の内発的動機と最も一致するのか、いまはアウトプットしながら周りに話しながら組み上げているところです。

不思議なもので、アウトプットをはじめると一気に「出会いたい」と思っていたような活動をしている人たちと縁が生まれるものなのです。わずかながらも前進している感覚を抱いていますが、それはこの2冊が無ければ辿り着けていないはず。

少しだけ、このnoteに書き記した妄想を紹介します。全然これだけではないので、おそらく今後もっとアウトプットが増えるものだと思います。


私が思う「未来の可能性を拡げる妄想」とは


ビジョン思考に必要な問いかけであったり、ビジョン思考を習慣化するものは何なのか。私はアートに強い可能性を感じています

既に「アート思考」というモノの考え方が世に出始めている。アーティストが社会を切り取る視点に対して注目も集まっている。ジェームズ・タレルが言った「アーティストは問いを発する人だ」という言葉もある意味アートの可能性を感じさせるものとして一人歩きしています。

しかし、私は今のままでは「アート思考」はよくあるビジネス手法の一環として社会で一つのブームとして消費されて終わってしまうのではないかと危惧しています。アートの価値がビジネススキルの一環としてブームになり、そして消費され下火になってしまうことを望んではいません。

アーティストの鋭さや現代アートなどを見ることによる社会課題に対するアプローチといった部分が注目されていますが、本来的にアートの価値は「自己」に対して埋没していく行為、あるいは「自己と外界」の境界を見定めようとする行為であると感じています。

だから、自分起点の表現でなければならない。表現としてアウトプットされなければならない。ということは、そもそもアート「思考」ではなく、Do Artであるべきだと思っています。それも「技法」を評価しない「自己と向き合う手段」としてのDo Artです。

Artに関連する教育はどうしても技法に目が行きがちです。「うまく絵を描く」ことができた人の評価が高い。「そんなことは無いよ」と建前は並べても、学校の体育館でクラス全員の絵画を飾るような行為をすれば否が応でも「技術の差」が見えてしまいます。

技術もArtを構成する一つの要素であることに間違いはありませんが、その前段として「自己」を見据えた結果の表現であるということを押さえなければならないでしょう。

自己に向き合い、自己と外界の関係性を見定め、それを様々な手段で表現しようとする行為。その行為を常に実践することが「自分起点の妄想力」を培う源泉となると強く感じています。

これはまだ妄想にすら至っていないアイデアの種ではあるのですが、「自己に向き合うDo Art」に対する教育を幼少期からはじめ、その次に「他者に対する行為であるDesign」と「社会に対する行為であるBusiness」を学ぶような場や機会を生み出したいと考えています。

学び

これは、引き続き妄想を膨らませていきたいと感じているテーマの一つです。


道筋を示し、勇気をくれる啓示書


おや、まさか最後まで読んでいただけたんでしょうか!

こんな散文をありがとうございます。想いが溢れて止まらず、どうにかまとめようとも思ったのですが無理でした。

でも、きっとこの2冊に突き動かされている人が他にもたくさんいるはず。

この2冊が生み出した人のうねりが、2030年を迎えるころにはどんなカタチを成しているのか今から楽しみですね。私もその波の一つになろうと、日々の妄想を育て・妄想をカタチにする行動を取っていくのです。

さあ、まだ未読の方。もったいないですよ。今すぐポチっと購入するべきです。この2冊に触れたあと、あなたの行動はきっと変わっているはずだから。もう一回、amazonのリンク貼っとこ。


「私の人生を変えた2冊です」と、2030年に話していることを目指して。


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