メモ 既成事実(fait accompli)とは何か、戦略的に何の意味があるのか?
国際社会では、現状の維持を図るよりも、現状の変更を図る方がはるかに難しい判断を必要とします。これは現状を変更するということは、国際社会の現状を支持する原理原則、権利関係、あるいは利害関係を関係国に再検討させ、新しい合意を形成し、受け入れさせなければならないためです。単に現状の維持を図るのであれば、すでに関係国の間で確立された紛争処理の落としどころが制度化されており、当事者にとって認識しやすいので、交渉において優位に立つことができます。
ある指導者が対外政策として現状変更を企図する場合、究極的には武力行使に踏み切ることが選択肢となるでしょう。しかし、戦争の規模、烈度が予想を超えて拡大する場合、その費用によって利得が相殺されてしまい、むしろ損失を拡大する恐れさえあります。このような危険を考慮すると、侵略的な意図を持つ指導者であっても、侵略を思いとどまらざるを得なくなり、結果として抑止されることになります。この抑止された状態から抜け出したい場合は、可能な限り低さな危険と費用で現状変更を関係国に受け入れさせる戦略を編み出さなければなりません。既成事実(fait accompli)は、そのような戦略の手段として使われてきたものです。
抑止論の研究で知られるアレクサンダー・ジョージとリチャード・スモークという研究者がいます。彼らは古典的な著作である『アメリカの対外政策における抑止(Deterrence in American Foreign Policy)』(1974)の中で、迅速な武力行使によって既成事実を作り出し、相手が軍事的に対応するいとまを与えないことで、結果的に現状変更を受け入れざるを得ない状態に相手を追い込むことができることを指摘しました。彼らは、朝鮮戦争の事例に基づいて既成事実の効果を考察しています。
1950年に北朝鮮が韓国に侵攻したことで始まった朝鮮戦争ですが、北朝鮮の武力攻撃は事前にソビエトの承認を受けたものでした。ただ、当時の最高指導者だったヨシフ・スターリンは北朝鮮と韓国の戦争が始まれば、アメリカが参戦し、戦争が拡大する危険があると考え、北朝鮮の戦争計画の承認をためらっていたことが分かっています。このとき、スターリンの決断を後押しすることになったのは、北朝鮮が決定的な一撃を加えて早期に戦争を終結に導くことができるというニキータ・フルシチョフなどの楽観的な予想があり、その予想が戦争計画の承認、そして北朝鮮の武力攻撃に繋がったとジョージとスモークは考えています。
北朝鮮の事例から分かるのは、アメリカ軍が朝鮮半島に部隊を送り込もうとしても、そのときには朝鮮半島はすでに北朝鮮の支配下に収まっており、既成事実化が完了しているであろうという期待が、武力攻撃の決断を促す根拠となっていたということです。ソ連は、アメリカが軍事的に介入することはないと考えたのではなく、その速さによって判断を調整したということは、抑止戦略の観点から見ても興味深いことです。既成事実を作り出す軍事行動の速さが、既成事実を無にする軍事行動の速さを上回ったとき、現状変更が可能であるという判断が導き出されています。
参考文献
George, Alexander L. and Richard Smoke. (1974). Deterrence in American Foreign Policy: Theory and Practice, New York: Columbia University Press.
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