戦後の財界と自衛隊の関わりを考察した『自衛隊と財界人の戦後史』(2024)
現在の自衛隊の前身にあたる警察予備隊は1950年に朝鮮戦争が勃発したことを契機に創設された組織です。それまで日本に駐留していたアメリカ軍の部隊が韓国での作戦に参加するため移動したので、日本政府は独自の武装部隊を整備するために警察予備隊を立ち上げ、1952年に保安隊に改編し、1954年に自衛隊へ発展させました。
自衛隊は当初から非武装中立を掲げる社会党などが憲法に定めた戦力不保持に反すると批判し、党派色が強い争点になりました。このような政治状況が変化してきたのは冷戦終結後の1990年代とされてきましたが、以下に挙げる『自衛隊と財界人の戦後史』はそれより前の時期から国民の大多数は自衛隊の必要性を認識し、特に財界は防衛協会、自衛隊協力会を創設し、自衛隊の支持を拡大するために活動していたことを明らかにしています。
中原雅人『自衛隊と財界人の戦後史:支援ネットワークの形成とその意味』ミネルヴァ書房、2024年
まず、1950年代の日本では保革対立が先鋭化し、日本共産党が1951年に武装闘争を宣言し、武装集団の地下活動を開始するなど、治安の維持さえ危ぶまれる状況だったことを踏まえる必要があります。暴力革命の理念を共有しなかった社会党も1953年に保安隊の解散を掲げて26回衆議院選挙を戦っており、有権者の支持を集めています。
1955年に自由党と日本民主党が合同して自由民主党が成立したのも、議会で保守派陣営の勢力を結集し、革新派陣営の勢いに対抗するためでした。また、日本の再武装を推進した吉田茂首相としても、自衛隊の位置付けを低く保って目立たないようにしつつ、経済発展を重視する方針をとっていました(32-33頁)。このような歴史的背景があったため、表立って自衛隊を支援することは簡単なことではありませんでした。
このような状況を変えたのが自衛隊の災害派遣であったと著者は述べています。1962年から1963年にかけて北陸を中心に続いた豪雪のことであり、この災害派遣では東部方面隊と中部方面隊が主力となりました。当時、新潟県長岡市では積雪が4メートルに達しており、地元の除雪能力は限界に達していたことから、第12師団の1500名の隊員が出動しました(51頁)。
1月26日に新潟国鉄は長岡駅に指揮所を置く師団のために車掌控室を提供しましたが、師団長は「提供された二階は物置きを急遽提供したものの如く、机も椅子もなく、暖炉設備もないこの冷遇に憤然、前途の協力に不安を覚えた。新潟国鉄支社の労組は過激で知られ、自衛隊を白眼視するもののようであった」と非協力的な雰囲気を感じていました(51-2頁)。
そのため、師団指揮所は1月30日に新潟駅国鉄支局に移転し、除雪作業を指揮しました。作業は順調に進み、豪雪で孤立した村落の重症患者を病院に搬送する任務や支援物資を輸送する任務を通じて地元住民との関係は次第に改善へと向かい、市町村民から食事の提供や洗濯の支援などの申し出が増えていきました(54頁)。
2月20日には新潟市内の大通りで師団のパレードが実施され、翌21日の司令部の引上げに際しては、駅のホームで国鉄支社首脳部の見送りを受けています。このような成果を上げたのは新潟県だけではなく、それまで被災地で自衛隊に無関心だった、あるいは敵視していた人々の態度を好転させ、メディア報道を通じて被災地以外の地域でも印象を変えることにも繋がりました。このような時期に防衛協会、自衛隊協力会といった自衛隊協力団体が各地で設立されています(57-58頁)。
この研究が興味深いのは、1960年代に自衛隊支援が社会で拡大する過程で財界が率先して動いていたことが明らかにされている点です。関西経済連合会の会長で東洋紡績の社長だった阿部孝次郎は先に述べた災害派遣に関する一部報道で、自衛隊に否定的な内容が見られたことに不満を抱いたことがきっかけとなり、募金で自衛隊を支援する活動を開始しました(67頁)。これは全国的にも例がなかったことでしたが、目標金額の2倍以上になる1200万円を慰問金として防衛庁に提供しました(68頁)。しかし、金額が大きかったことから、共産党や社会党から国会で追及される恐れがあるとされ、寄付者に返金されてしまいました(同上)。
このような経緯から、財界と自衛隊の癒着という誤解が生じることを避けるために、自衛隊支援の民間団体として1964年に大阪防衛協会が設立されました。その初代会長には松下電器産業の創業者である松下幸之助が就任し、法人会員146社、団体会員7団体、個人会員64名の態勢で出発しました(79頁)。法人会員数は2年後に200社を超え、個人会員も1967年には640人に膨らみ、慰問事業、援護事業、広報事業などを通じた支援活動を展開するようになりました(84頁)。
松下は精力的に講演も行い、その影響力で自衛隊支援の運動を広げることに尽力しました(92頁)。東京でも1966年に東京都防衛協会の前身にあたる東京都自衛隊協力会連合会が組織され、日清紡績の社長桜田武が初代会長に就任しました(109頁)。この時期になると全国組織を形成する動きも広がっており、桜田は松下は全国組織の結成に向けて連携し、1969年には全国の防衛協会、自衛隊協力会の会員56万7000人を束ねる防衛協会全国連絡協議会が発足しました(125頁)。
運動がこれほどの広がりを見せた理由について、著者は災害派遣が一つの契機であったものの、当時の政治状況として革新派が推進していた非武装中立論に対する国民の支持拡大と、反自衛隊の風潮の高まりへの警戒感が大きかったと説明しています。社会党は1969年の党大会で「非武装・平和中立への道」を採択して、日米安全保障条約を解消し、自衛隊は解体することを主張していましたが、少なくない数の国民がこの案に賛成していました(138頁)。
1972年の世論調査の結果を見ると、日米安保条約を継続し、自衛力を増強しつつ、アメリカの核抑止に依存するという見解は12%にとどまっており、条約を段階的に解消して自衛隊を国土警備隊に変更し、中立をとるという見解が21%、条約の破棄と非武装中立を採用し、アメリカ、中国、ソ連と不可侵条約を締結するという見解が17%で、社会党の非武装中立の路線に一定の支持が集まっていたことが確認できます(同上、139頁)。
桜田は当時、防衛問題を正面から取り上げようとしない自民党の政治家に対して批判的な立場をとっていました。1970年安保問題で激しい抗議運動が起きた1969年には「政府は、何をおそれてか、わが国をとりまく国際軍事情勢のきびしさを国民に知らせることなく、したがって国民はまったく無関心」と与党の姿勢に問題があると述べていました(153頁)。冷戦構造の中で日本が安全保障の問題に取り組むべき状況であるのに、そのことに対する国民の理解が得られていないことに不満を持っていたことが講演記録などから裏付けられています。
安全保障の問題が政界で取り上げられず、自衛隊が然るべき支援を受けることができていないという認識があったために、財界関係者は自衛隊支持の役割を引き受けたという解釈が示されています。1970年代以降には中央政界でも自衛隊の問題に取り組む自民党の政治家が現れ、1970年に中曾根康弘防衛庁長官の下で初めて『防衛白書』が刊行されるなど、防衛知識の普及が拡大されることになりました(200頁)。ただし、地方、学界、メディアなどにおける自衛隊への見方が変わるには、さらに長い時間を要することになります。
見出し画像:国会前に終結した安保反対のデモ隊、1960年6月18日