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情報戦でノイズを除去し、本当のシグナルを特定する難しさを論じた『パールハーバー』(1962)の紹介

1941年12月7日、日本海軍の機動部隊はハワイに置かれたアメリカ海軍の作戦基地を奇襲することに成功し、世界を驚かせました(真珠湾攻撃)。この戦いで敗北したアメリカ海軍は、戦艦4隻沈没、戦艦1隻座礁、戦艦3隻損傷など、甚大な損害を出しました。戦後のアメリカでは、その原因を究明するための調査研究が行われていますが、その代表的な成果の一つとして歴史学者のロバータ・ウォルステッターが発表しおた『パールハーバー』(1962)があります。彼女の業績は今でも情報活動史の分野で高い評価を受けています。

Wholstetter, Roberta. (1962). Pearl Harbor: Warning and Decision. Stanford University Press.(邦訳、ウォルステッター『パールハーバー:警告と決定』北川知子訳、日経BP、2019年

1941年12月のアメリカ海軍は日本海軍の真珠湾攻撃を防止できたのではないかという見方がありますが、これには後知恵バイアスが含まれています。現実の情報活動の世界で、早期に警報を発出することは容易なことではありません。この著作が主張しているのは、国家の情報活動で敵の武力行使の兆候を察知することができていたとしても、それだけでは戦略的奇襲を防ぐ上で不十分であるということです。

情報勤務につく人々は、毎日のように膨大かつ複雑な情報資料を分類し、処理し、評価する業務に追われています。どのような情報が本当の兆候、すなわちシグナルであるのかを見分けることは、一般的に想像されている難しいことであり、簡単に偽りの兆候、つまりノイズの中に埋もれるのです。大まかに述べると、アメリカ海軍は11月27日以降であれば、いつ日本海軍が対米作戦を開始してもおかしくはないと見抜いていました。しかし、日本の作戦計画のすべてを把握できていたわけではありません。情報活動は刻々と変化する状況の中で行われています。

重要な意味を持つ情報が得られたとしても、その情報の確度は決して100%ではありません。別の情報の方が、より深刻な危険を示唆しているように思われることがあります。もし幸運にも必要な情報が必要な人物に伝達されたとしても、適切な警戒態勢をとらないことも考えられます。このような情報活動の難しさは、情報活動の当事者でなければ想像しがたい部分があり、それを事例分析の方法で示しているのが本書の特徴です。国際情勢の不確実さ、曖昧さは情報活動がどれほど発達しても根本的に除去できる性質のものではないこと、つまり国家が戦略的奇襲を受ける危険性は、これからも常に存在し続けることが分かります。

1941年の時点でアメリカは日本が使用していた暗号を解読しており、暗号化された通信文から数多くの情報資料を取得していたことは、現在よく知られています。しかし、これはアメリカ海軍が日本海軍の動向を完全に把握していたことを意味するわけではありません。海軍軍人ジョセフ・ロシュフォールは日本海軍の暗号通信の解読を目的とした情報活動の指揮をとり、アラスカ州のアマクナット島に置かれたダッチハーバー海軍基地アメリカ領のサモアハワイ州のオアフ島ミッドウェー島に置かれた4基のアンテナで日本海軍の暗号通信を監視していました。ただし、当時の無線傍受には技術的な制約が多く、ロシュフォールは傍受した通信の内容をすべて理解できていたわけではなかったとして、全体の10%程度が理解できたと述べています。秘密を保全するため、ロシュフォールの情報は海軍の内部でもほとんど共有されておらず、陸軍や警察の情報関係者との交流は皆無であったことも指摘されています。

しかし、ロシュフォールは限られた情報資料の中から、重要なシグナルを特定することに成功していました。1941年11月1日、ロシュフォールは日本海軍で艦艇間の無線通信に使用する呼出符号が変更されたことを、太平洋艦隊情報参謀エドウィン・レイトン海軍中佐に対する定期報告の中で述べています。その1か月後の同年12月1日の報告で、ロシュフォールは日本が再び呼出符合を変更したことを報告しました。彼は、これまでの情報活動の経験から、日本海軍は新しい呼出符合を設定すると、6か月以上それを使用し続けることを知っていたので、呼出符合の変更を短期間に繰り返したことの特異性を重視し、これが大規模な作戦の兆候であると判断しています。しかし、その後は日本海軍の動きを察知できなくなり、12月2日の報告では「空母に関する情報はほとんどなし」、12月3日には「潜水艦、空母に関する情報なし」という報告を上げています。この時期に太平洋艦隊司令長官だったハズバンド・キンメル海軍大将は、日本の空母の位置情報を掴めなくなっていたことを懸念し、12月1日に情報要求を出していましたが、1941年以前にも日本の空母の位置が分からなくなったことがあり、それ自体は必ずしも特異な事象とは考えられていませんでした。

キンメルの情報要求を受けてから、レイトンは中国の沿岸部を監視している情報員からもたらされた情報に接しており、日本の船団が南へ向かったことを知りました。12月6日には、アメリカ海軍アジア艦隊からの通報を受け、日本の海上部隊がインドシナの中南部に位置し、南シナ海に面するカムラン湾、インドシナ半島とマレー半島に挟まれたタイランド湾で目撃されたという情報を得ました。イギリスから提供された情報によって、この情報の確度を高めることができたので、レイトンは日本はその部隊を南方へ指向していると判断しました。そのため、ハワイに日本海軍の部隊が接近しているとは予見できませんでした。ちなみに、レイトンの判断は、ロシュフォールが11月の時点で出していた日本の大規模な部隊が東南アジアで活動する可能性があるという予測とも一致するものであり、著者はレイトンが当時入手可能だった情報と照合すると、このような判断は妥当なものであったと考えています。

ここで述べたのは、本書の内容のごく一部にすぎません。著者は、当事者の証言を直接引用し、当時のアメリカ軍が情報活動において露呈した課題を数多く浮き彫りにしています。それらの課題は現代の情報活動の改善に役立つものもあります。しかし、この事例分析から読者が学ぶべきは、情報活動に絶対的な確実さを求めることは原理的に不可能な部分があるということであり、どれほど技術的な課題が克服されたとしても、情報の不完全さ、カール・フォン・クラウゼヴィッツが「戦争の霧」と呼んだものが消滅することは決してないということだと思います。情報戦の古典として長く読み継がれるべき一冊です。

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