見出し画像

論文紹介 なぜルトワックは冷戦期に西側の軍事ドクトリンを批判したのか

研究者のエドワード・ルトワックは、1981年に戦略と戦術の中間に位置する分析レベルとして作戦レベル(operational level)という階層を新たに追加することを提案し、作戦レベルにおけるNATOの戦力運用をより詳細に分析すべきであると主張した論文「戦争の作戦レベル(The operational level of war)」を発表しています。

この論文が出された背景として、アメリカがベトナム戦争で敗北を喫し、撤退に追い込まれたことが関係しています。当時、すでにアメリカでは徴兵制が廃止され、完全志願制に移行したこともあったので、アメリカはソ連に対抗するために効率的な軍事ドクトリンを必要としており、従来の軍事思想を見直す機運が高まっていたことを反映している内容になっています。

Luttwak, E. N. (1981). The operational level of war. International Security, 5(3), 61-79. https://doi.org/10.1162/isec.5.3.61

この論文では、従来のアメリカの軍事思想において、作戦レベルに関する研究が貧弱だったことが批判的に検討されています。このような状況を許してきたのは、アメリカが敵に対する物量の優位を占めてきたことが関係しており、結果として消耗戦による戦争遂行が可能だったためであると説明されています。このことは、アメリカで作戦レベルの軍事的思考を発展させる余地を狭めてきました。

第一次世界大戦でアメリカ軍が西部戦線に遠征部隊を派遣した際にも、現地の作戦行動は主としてフランス軍の作戦計画に依拠しており、完全に独自の作戦を遂行することはありませんでした。1941年から1945年までの第二次世界大戦でアメリカ軍は初めて優れた作戦アプローチを開発しましたが、その成功は個々の司令官の才能や技術によるものと理解され、それを理論化、体系化し、ドクトリンの内容に反映させることはなかったとされています。

1950年に始まった朝鮮戦争以降もこの問題は続きました。著者の見解では「純粋な消耗戦の極端な事例としては、技法(technique)と戦術しかなく、作戦レベルの行動は皆無である」とされています(Luttwak 1981: 63)。このようなアメリカ式の軍事的思考では、火力を発揮して目標を効率よく撃破するという発想が支配的であり、敵部隊がすべて撃破されたときに勝利が達成されるはずであると想定されていました(Ibid.)。

ルトワックは消耗戦の軍事思想にも利点があることは認めています。それは「予測可能性」と「機能単純性」であり、どうすれば戦場でより多くの目標を撃破できるかを見積った上で、その効果を高めるように予算を配分することを考えます(Ibid.: 64)。このような考え方は、ミクロ経済学の限界分析に依拠するものであり、軍隊を利潤を最大化する企業のように管理されるべきものとして捉えています(Ibid.)。

消耗戦の欠点は、適用可能な状況が限定されることです。それは外部環境が比較的安定している場合にのみ当てはめることができます。消耗戦の対極にある軍事的思考法として著者は相対的機動(relational-maneuver)を挙げているのですが、これは敵を一つのシステムと捉え、その強さを避けつつ、弱点に対して選択的な打撃を加えることで勝利を収めることを追求します(Ibid.)。このとき、敵の弱点は必ずしも装備や人員などの物理的な要素に限定されません。指揮統制や部隊の士気など精神的な次元で弱点を打撃することも相対的機動の一部と考えられています。現実の作戦運用では、この二つのスタイルを組み合わせますが、著者はこの二つのスタイルを区別することが重要だと主張しています(Ibid.)。

例えば、核兵器を用いた戦争において消耗戦の考え方を適用する場合、重視されるのは敵国の産業施設、都市人口を破壊、殺傷する効果になります。しかし、相対的機動に基づく機動戦の考え方を核兵器使用の問題に適用する場合、産業施設や都市人口の破壊や殺傷は必ずしも達成しなければならないことではありません(Ibid.: 66)。なぜなら、指揮センターや司令部を撃破することによって、敵の政治的、軍事的システムを機能不全に追い込む可能性が考慮されるためです。軍事システムや経済システムの全体を攪乱させる要点を選択的に打撃することが選択肢となります(Ibid.)。

著者は、こうした機動戦の考え方が成果を出した例として、1939年にドイツがポーランドに対して軍事侵攻したときのことを挙げています。当時、ドイツ軍の作戦行動はポーランド軍の前線部隊を撃破すること以上に、その後方地域を縦深にわたって迅速に突破し、ポーランド軍が各地の部隊を統制し、組織的抵抗を図ることができない状態に追い込んでいます。

「(ドイツ軍の)侵攻部隊は前進軸に沿って一般任務委任命令(general mission order)と戦術的機会主義(tactical opportunism)により十分に指導されていたため、上級部隊から詳細な指令を必要としなかった。これに対して防衛部隊の機動部隊の活動は進行中の戦況についての十分な資料を受け取っている司令部に依存していた。侵攻部隊の前進は、シグナルより多くのノイズを生み出すので、(ポーランド軍の司令部が)状況を把握することは極めて難しかった。通常、電撃戦の犠牲になるのは、意思決定ができない状態に陥るか、あるいは戦況の『読み』において大きな間違いを犯すことを覚悟で行動を選択するかのどちらかしかなくなるのである」

(Ibid.: 68)

著者の見解によれば、ドイツ軍は相対的機動によって、ポーランド軍が受け取れる情報を攪乱し、結果的に欺騙(deception)の効果を得ました。これがドイツが短期間でポーランドを屈服できた理由であり、著者は消耗戦のスタイルを採用していた場合に比べて、短期間で決定的な成果を収めることが可能になったと説明しています。こうした相対的機動の効果は作戦レベルの分析によらなければ明らかにはできません。

「いずれにせよ、成功のためには防者の指揮官を不確実な状態に追い込み続けることが絶対に必要である。これは単なる秘密保全では達成できない。なぜなら、そのような場合には欺騙が続く期間は(完璧な警戒を前提としたとしても)敵対行為の開始を超えて継続できないためである。侵入のフェーズでは、欺騙は作戦それ自体の形態に内在している。侵攻部隊は混乱によって覆い隠されるだけの十分な速度を保ち、また前進方向が予測不可能でないと、側面からの攻撃に対して非常に脆弱であることは間違いない」

(Ibid.: 71)

著者は1981年の時点で、こうしたスタイルの作戦運用に関する検討を行っている事例として、フィンランドの取り組みを評価しています。当時、フィンランドはソ連と国境を接していながらも、北大西洋条約機構には加盟しない中立路線を採用していました。したがって、フィンランドは限られた軍事力でソ連の脅威に対処する計画を立案する必要があったので、そのために相対的機動を駆使する方法を検討していました。

フィンランド軍のドクトリンでは、ソ連軍の機甲部隊の進撃を国境地帯で阻止することは避けています(Ibid.: 74)。その代わりに、北部のフィヨルド、深い渓谷や山地に主力を後退配備しており、軽歩兵中隊を機動的な遊撃戦に使用する態勢を準備しています(Ibid.: 75-6)。フィンランド軍にも戦車部隊は存在しますが、これは対機甲戦闘のための部隊というよりも、ソ連軍の機甲部隊に対抗する作戦、戦術を開発するための部隊と位置付けられています(Ibid.: 76)。著者は、こうした物量に依存しない作戦ドクトリンの価値を強調しており、アメリカ軍も機動戦の作戦ドクトリンを発展させるべきだと主張しています。

アメリカは1980年代にそれまでの軍事ドクトリンの開発方針を大きく転換させることになりますが、この論文はそのような転換に至るまでに専門家がどのような議論を積み重ねていたのかをよく示しています。1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻の後で、アメリカがソ連に対する封じ込め政策を展開していく上で、ルトワックが掲げた作戦ドクトリンの刷新は重要な論点となりました。

関連記事

いいなと思ったら応援しよう!

武内和人|戦争から人と社会を考える
調査研究をサポートして頂ける場合は、ご希望の研究領域をご指定ください。その分野の図書費として使わせて頂きます。