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論文紹介 近現代のドイツの作戦術はどのように変化してきたのか

現代の軍事学で作戦(operation)は、戦略の下位、戦術の上位で広域的な視点から最適化する戦力運用のレベルです。19世紀までの軍事学では運用の問題を戦略と戦術という二つのレベルに分けて分析することが一般的でしたが、19世紀の後半から20世紀の初頭にかけて戦略と戦術の中間に作戦というレベルを導入することが広まり、現代の軍事思想にも大きな影響を及ぼしました。

歴史学が専門のコロラド大学Dennis E. Shwalter教授の「プロイセン・ドイツの作戦術、1740~1943(Prussian–German Operational Art, 1740–1943)」は近現代におけるドイツの軍事思想史を取り上げ、作戦行動のレベルでどのような軍事思想が展開されてきたのかを批判的に評価しています。彼の見解によれば、ドイツ軍の作戦術は自律性、柔軟性、機動性を重視し、戦闘効率を高める上で有効だったものの、戦略との整合性が乏しく、戦争目的を達成するという観点から有効ではない傾向がありました。

Shwalter, Dennis E. (2011). Prussian–German Operational Art, 1740–1943, John Andreas Olsen and Martin van Creveld, eds. The Evolution of Operational Art: From Napoleon to the Present, Oxford University Press, pp. 35-63.

プロイセンで形成された軍事思想には戦争術を科学的、計画的なものというよりも、技術的、実践的なものとして捉える傾向が強かったことを著者は指摘しています。18世紀にフリードリヒ二世が軍制の改革に取り組んでいた時期から、プロイセンでは短期決戦によって速やかに戦争を終わらせるべきであるという戦略思想があり、軍隊の運用で自律性、機動性、柔軟性を重視する傾向がありました。

ナポレオン戦争(1804~1815)で経験を積んだプロイセン軍人カール・フォン・クラウゼヴィッツは著作『戦争論』(1832)の中で戦争術の研究に戦略と戦術の区別が必要であることを明確に指摘し、運用の観点から異なる性質があることを認識していました。ただ、クラウゼヴィッツは戦闘前に味方の部隊を一か所に集合させ、それから一斉に戦闘展開するような運用を想定しており、それは19世紀の後半には時代遅れになりつつありました。近代戦では軍の移動が鉄道輸送の発達で迅速になっており、以前よりも素早く部隊を戦場に展開することが求められるようになっていました。

19世紀にドイツの周辺諸国も続々と徴兵制を採用し、運用する戦力が大規模化していたことも重要な変化でした。そのため、部隊移動を一元的に統制することが困難になり、後方支援に過度な負担をかける恐れもありました。著者が作戦の重要性が増した要因として特に強調しているのは、戦術の面での制約が増したことであり、特に小銃や火砲の殺傷力は大幅に向上したことが指摘されています。敵弾による被害を軽減するためには、部隊を広い正面に展開する必要があり、攻撃の際には敵部隊の正面からではなく、側面や背面に回り込む機動が迅速かつ機敏に行われなければなりませんでした。これらの戦術的な部隊行動を一軍の司令官がまとめて指揮することは現実的ではなく、作戦のレベルで指揮官が果たす役割が増したと考えられています。

この変化に対応するために、プロイセン軍のヘルムート・フォン・モルトケはさまざまな改革を行いました。1866年7月3日に行われたケーニヒグレーツの戦闘普墺戦争)はナポレオン戦争の終わりから第二次世界大戦(1939~1945)の勃発までの時期で最も重要な意味を持つ戦闘であったと論文では評価されています。その理由は、この戦闘でプロイセンは複数の地点から同時に軍を敵に向けて前進させ、オーストリア軍を取り囲んだ上で戦闘に持ち込むことに成功したためです。戦闘が開始された後でプロイセン軍がとった戦術行動が優れていただけでなく、作戦レベルにおける運用が優れていたことが成功に寄与しました。モルトケは1869年にプロイセン王の承認を得て『大部隊指揮官のための教令』を発行し、自らの作戦運用のドクトリンを定式化していることでも注目されています。

ただ、モルトケは作戦、あるいは作戦術という用語を使っていたわけではないので、その点は誤解がないように注意しなければなりません。モルトケは現代の研究者が考える作戦を戦略と厳密に分けていなかったように思われます。普仏戦争(1870~1871)が終結した後でモルトケは刻々と変化する状況を的確に判断し、自分が持つ手段を即興的に組み合わせて問題を解決する技術こそが戦略の本質であると主張していましたが、この論文の著者の見解によれば、これは実質的に作戦術の意味に近いものでした。

しかし、アルフレート・フォン・シュリーフェンがドイツ陸軍の参謀総長に就任してから、作戦術に対する理解は変化したと著者は述べています。論文の中で著者はその理由を詳しく述べていないので、本稿でもその論点を掘り下げることは避けますが、シュリーフェンは近い将来の戦争でフランス軍を短期決戦で撃滅することが求められていました。この難問に答えを出すために、シュリーフェンは作戦行動を厳格な戦略計画に沿って統制する必要があると判断したため、結果として作戦レベルにおける部隊運用の柔軟性は低下することになりました。

第一次世界大戦(1914~18)が勃発した1914年以降のドイツ軍の戦力運用のパターンを見ると、少なくとも開戦当初の作戦術はあまり効率的ではなかったと著者は見ています。作戦行動において一定の自律性と柔軟性を与え、機動的に部隊を運用させる利点は、戦略レベルで制御できない不測の事態などに速やかに対処するためですが、西部戦線でドイツ軍の作戦行動は戦略によって厳しく制約されていました。1917年9月1日から9月4日のリガの戦いにおいて、ドイツ軍は目覚ましい戦果を上げましたが、これは戦術的な革新によるところが大きいと考えられていました。しかし、歴史学者デヴィッド・ザベッキ(David Zabecki)の業績『1918年のドイツ軍の攻勢(The German 1918 Offensives: A Case Study in the Operational Level of War)』(2008)が出てからは、当時のドイツ軍の指揮官が作戦術の有効性をかなり理解していたことが分かり、この時期に作戦行動の重要性が認識されるようになったと考えられます。

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