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論文紹介 イラクが核開発を進めようとした狙いは何だったのか?

1979年3月27日、イラクの副大統領でありながら、すでに事実上の最高指導者として権力を掌握しつつあったサッダーム・フセインは、政府の高官を集めた非公開の会議で対イスラエル戦の構想について自らの考えを明らかにしました。まず、ソ連の援助で核兵器を調達し、当時すでにイスラエルが開発した核兵器の使用を抑止できる態勢を確立します。この抑止に基づいて、アラブ諸国が一致団結して通常兵器による消耗戦を挑み、イスラエルを打倒することが目指されていました。

2003年のイラク戦争以降、政府の公文書の公開が進んだことで、その内容から体制の実態に迫ることが可能になりました。今回は、1979年から1980年代の初頭にかけて、サッダームがどのような構想を持っていたのかを調査した研究を紹介しようと思います。

Brands, H., & Palkki, D. (2011). Saddam, Israel, and the Bomb: Nuclear Alarmism Justified? International Security, 36(1), 133–166. doi:10.1162/isec_a_00047

1979年7月にイラク共和国の大統領に就任したサッダームは、アラブ民族主義の立場をとるバース党の政治家であり、アラブ諸国を団結させてパレスチナを支援し、イスラエルを軍事的に打倒する方法に強い関心を持ち続けてきました。サッダームにとってイスラエルは非友好的なアラブ諸国に取り囲まれた小国ではなく、アラブ人を政治的に分裂させ、自らの軍事的優位を確保する攻撃的な国家でした。

サッダームは自らがイスラエルに強い敵意を持っていることを公の場でも隠そうとしませんでした。サッダームの公式の立場として、自分のイスラエルに対する立場は、反ユダヤ主義ではなく、反シオニズムであると強調しましたが、著者はサッダームの中で両者の区別は明瞭ではなかったと評価しています。サッダームはユダヤ人、イスラエル人が邪悪な動機を持つ集団と考え、自分の側近にはユダヤ人が全世界を支配しようと陰謀を巡らせているという陰謀論を記した『シオンの議定書』が真実であると語っていました(Brands & Palkki 2011: 140-1)。こうした世界観に囚われたことが、サッダームの対イスラエル政策を強硬路線に向かわせたと考えられています。

サッダームの対イスラエル政策を理解する上でもう一つ重要な出来事だったのは、1979年にイスラエルとエジプトとの間で成立した和平です。これはアメリカの仲介で成立した和平合意であり(キャンプ・デービッド合意)、サッダームはアラブ諸国の結束が崩れた今こそ、改めて反イスラエル陣営を結束すべきだと主張しました。サッダームは、時としてイスラエルを完全に破壊することを構想していることを示唆することもありましたが、多くの場合では1973年の第四次中東戦争で獲得した領土を取り戻す軍事行動を構想しており、これが軍事的に成功すればイスラエルの地政学的な立場は著しく弱体化するだろうと期待していました(Ibid.: 142)。

1979年、イラク革命指導評議会の会議においてサッダームは対イスラエル戦の構想をアラブ民族が連合して行う戦争、イラク、シリアが連合して行う戦争、あるいはイラク、シリア、ヨルダンが連合して行う戦争を想定しています(Ibid.: 143)。サッダームは、1979年のキャンプ・デービッド合意を受けて、アラブ諸国でイスラエルに対する敵意が改めて高まっている間に、イラクが軍事行動を率先して引き起こすことは、イラクの地位を向上させることにも繋がると考えていました。アメリカも、この兆候には気が付いており、1979年に中央情報局が作成した報告書では、イラクがイスラエルとの武力紛争に5個師団を投入する可能性があり、少なくとも5年間は中東において注意を払うべきであると評価していました(Ibid.: 143)。

ただ、サッダームは電撃的に勝利を収める見込みが乏しいことにも悩まされていました(Ibid.: 143)。これはサッダームはイスラエルの軍事力が優れていることは認めていたためであり、彼自身がイスラエルについて「敵を過小評価してはならない」と述べていました(Ibid.: 143)。また、アメリカの「敵に対する無条件の財政的、経済的な支援と武器の供給」がイスラエルを強力な国家にしたとも彼は考えており、イラクがイスラエルに戦いを挑めば、アメリカは核兵器で脅してくるだろうと予想していました(Ibid.: 144)。また、1970年代の半ばまでには中東諸国の間でイスラエルが実用的な核兵器を保有するようになっているという認識が広がっていたので、この脅威にも対処しなければなりませんでした(Ibid.: 145)。

イラクの核開発は1950年代にソ連製の研究用原子炉を購入したときに始まっていますが、その研究開発は政情不安で滞りがちでした。しかし、1973年にイラク原子力委員会の委員長にサッダームが就任してからは、原子力研究は劇的に進展しています。イラクはフランスの協力を得て高濃縮ウランの供給源を確保し、イタリアからも技術援助を受けることに成功しています(Ibid.: 146)。当時のイラク政府は公式見解として、原子力をあくまでも平和目的で利用すると主張しており、その意図を秘匿していました。そのため、1980年のアメリカの情報評価でも、イラクが核爆弾の入手を決定した確かな証拠はないと記されていました(Ibid.: 146)。

著者は、サッダームが意図していたのは、イスラエルの人口密集地に対してイラク軍が核兵器で打撃を加えることができると認識させることで、アメリカやイスラエルが持つ核戦力の優位を打ち消し、戦争が核戦争にエスカレートすることを防ぐことであったと述べています(Ibid.: 148)。たった1発でも核爆弾があれば、戦争を消耗戦にすることが可能と期待されており、そうすれば12か月にわたる消耗戦でイラク軍に5万名の死傷者を出したとしても、イスラエル北部にあるガリラヤ湖には進出可能だと見積もっていました(Ibid.: 149)。そのため、ソ連を説得して核爆弾を調達することも検討されたようですが、これは失敗に終わりました。

作戦計画は野心的ですが多くの問題がありました。もしイラク軍がイスラエルの北部、特にゴラン高原を攻撃するのであれば、シリア、ヨルダン、もしくは両国に対して大規模な部隊を展開させる必要がありますが(エジプトはイスラエルと和平を結んでいるため参戦は期待できません)、イスラエルは態勢が完成する前に先制行動をとってくる恐れがありました。著者はイラクがイスラエルを攻撃することは軍事的に難しかったはずだと評価していますが、同時にサッダームが残した非公開の発言内容から、彼がこの構想を実現させることに強い情熱を持ち、積極的に動いていたことを過小評価すべきではないとも述べています(Ibid.: 150)。

サッダームは、1980年9月にイランに対する侵攻に踏み切ってからイラン・イラク戦争の対応に忙殺されることになりますが、その間も原子力研究は進められていました。1981年にイスラエル軍がイラクで建設中だった原子炉を航空機で爆撃する事件が起きていますが、核兵器の開発が断念されることはありませんでした(オペラ作戦)。

1990年の会議の席では、サッダームはイラクが5年以内に1発か10発の核爆弾を保有するようになると述べており、この時点でも対イスラエル戦の構想が維持されていたことが伺われます(Ibid.: 156)。しかし、1990年にイラクはクウェートに侵攻し、翌年にアメリカを中心とする多国籍連合軍の反撃を受けたことで、イラク国内の核施設に甚大な被害が生じました(Ibid.: 162-3)。また、その後の国連による制裁と査察は、イラクの核開発の再開を妨げており、2003年までにイラクが核兵器の開発を進めることはできない状況でした。ちなみに、この査察については、グレゴリー・コブレンツの「サダム対査察官(Saddam versus the inspectors)」(2018)で詳しく述べられています。

結局、イラク軍がイスラエルの領土に対して部隊を送り込み、戦闘を挑むことはありませんでしたが、サッダームとしては、そのような構想を持っていたことを知ると、イラクが核兵器の開発に対して並々ならぬ関心を持っていた理由がよく分かると思います。

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武内和人|戦争から人と社会を考える
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