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第二次世界大戦で経済学者クズネッツはどのように米国の産業動員に関わったのか?

1941年に第二次世界大戦に参戦したアメリカ政府は、ドイツ、日本、イタリアに対抗するため、自国の国防予算を拡大し、民間部門から軍事部門に生産力を再配置する産業動員(industrial mobilization)を行おうとしました。しかし、産業動員の実現可能性を評価する方法についてはまだ確立できていませんでした。

経済学者であり、統計学者でもあったサイモン・クズネッツは今日でも経済学の歴史で国民所得や経済成長の計量的分析に取り組んだ先駆者として知られており、1971年にはノーベル経済学賞も受賞しています。第二次世界大戦にアメリカが参戦したときには、戦時生産本部(War Production Board)で産業動員計画の見直しに関わる分析に従事し、当初計画の実現可能性に疑問を投げかけました。今回の記事は、その経緯を取り上げた論稿を紹介したいと思います。

Edelstein, M. (2001). The size of the US armed forces during World War II: Feasibility and war planning. In Research in Economic History, Vol. 20 (pp. 47-97). Emerald Group Publishing Limited. https://doi.org/10.1016/S0363-3268(01)20003-2

1941年12月7日にアメリカのハワイ州オアフ島の真珠湾に置かれていた太平洋艦隊の基地が日本海軍の機動部隊に攻撃され、アメリカ政府が第二次世界大戦に参戦することを宣言すると、陸軍と海軍はすぐに動員に向けて動き始めました。すでにアメリカの軍部では産業動員の計画作業が進められていましたが、フランクリン・ローズヴェルト大統領は陸海軍が計画を実行に移す前の1942年1月6日に議会向けの一般教書演説で主要軍需品の「必須リスト(must list)」を発表し、それまでの生産計画を一層拡大させる意向であることを明らかにして、関係者を驚かせました。

さらにローズヴェルト大統領は自らの政策を推進するため、同年1月に戦時生産本部を設置し、産業動員に関する広範な権限を与え、具体的な検討作業を行わせています。1942年2月11日に戦時生産本部がまとめた初期の分析では、「必須リスト」を達成するためにかかる費用は合計で1726億ドルとなり、参戦前に作成した見積より国防支出が約20%も増えることが明らかになりました(Ibid.: 60)。サイモン・クズネッツが戦時生産本部に参加し、この問題に取り組み始めたのは1942年1月下旬から2月のことでしたが、当初からその野心的な生産目標の実現可能性については疑いを持っていました。

ローズヴェルト政権は政治的な思惑から当初の生産目標を維持したいと考えていましたが、クズネッツなど戦時生産本部で分析に従事していた経済学者は3月までに労働力の不足で生産目標が達成できない可能性が高いことに気付き始めました。そこでクズネッツは自らの計量経済学の知見を踏まえ、8月12日により詳細な分析を報告しますが、そこでは国民総生産の計算結果を使用し、国内の原材料生産、工作機械生産、労働力供給の制約が生産目標の達成を妨げる可能性があることを明らかにしました(Ibid.: 64)。

クズネッツは1942年から1943年の実質の国民総生産が大幅に成長するはずだと予測していましたが、1942年の計画された軍需を満たすだけの生産力を確保することは困難であるという見通しを示し、生産目標の546億ドルには及ばず、実際の生産実績としては450億ドルから470億ドルの範囲になると予想しました(Ibid.)。軍需品の供給においてボトルネックとしては、原材料の供給不足が大きいとされていましたが、クズネッツは労働力の余力がほとんどないことも大きな制約であると指摘しました(Ibid.)。

クズネッツは、1942年3月の調査結果を踏まえ、アメリカの家庭には労働参加が可能な800万人の潜在的労働者が存在すると見積もっていましたが、その内訳としては家事従事者の女性650万人、学生である10代の若者の男女90万人、通常の労働は不可能と見なされる成人男女30万人、その他のカテゴリーの30万人が潜在的に利用可能な人員として推計されました(Ibid.: 67)。

ただし、この800万人の労働者のうち250万人は45歳以上の女性であり、労働負荷が大きい一部の製造業の職務に従事させるには不向きとされました(Ibid.: 68)。こうした労働供給の限界を考えるならば、生産目標を不必要に高く設定することは混乱や無駄の原因となるため、より現実的な生産目標に引き下げ、生産資源の最適配分を図るべきであると考えられました(Ibid.)。

この報告は政府、陸軍の関係者にも配布されましたが、アメリカ陸軍補給部(US Army Service of Supply)ブレホン・サマーヴェル部長は、クズネッツの見解に強く反発しました。サマーヴィルは民間部門を戦時体制に移行させる難しさについて確実なことはいえないはずだと主張し、ローズヴェルト大統領が掲げた生産目標が野心的なものであったとしても、それが生産実績を押し下げる効果はないと主張していました(Ibid.)。そのため産業動員計画についても見直しを拒絶したのです。

1942年10月の会議で戦時生産本部は改めてクズネッツの分析結果を報告しましたが、陸軍補給部のサマーヴィルはそれを受け入れることを拒絶するという緊迫したやり取りが交わされました。このとき、物価管理局(Office of Price Administration)の局長を務めるレオン・ヘンダーソンは、1943年度に陸海軍が調達する予定の財の総額は900億ドルに相当するとして、その現実性が乏しいと指摘し、サマーヴィルが示す非協力的態度を激しい言葉で非難しました。

紛糾した会議はいったん中断されましたが、会議の翌日に陸軍次官がサマーヴィル部長に覚書を送り、クズネッツの見解に基づいて予算を修正する必要があると指示しました(Ibid.: 59-60)。この指示を踏まえ、サマーヴィルは一週間後に再び会議に出席し、生産目標を引き下げる必要があることを受け入れ、そのことを統合参謀本部に正式に通知することが決定されました(Ibid.: 60)。クズネッツの計量経済学、特に国民所得計算が戦争指導に影響を及ぼした瞬間でした。

論文の著者は、その後のアメリカの経済では国防支出が4倍に増加しつつも、クズネッツが懸念したほど民間部門における消費が減退することはなかったことを指摘しており、クズネッツの計算が正しかったわけではないことに留意すべきであるという見方を示しています。このようなことが起きた要因については、クズネッツがアメリカ国内で利用可能な労働力を過小評価したこと、戦時体制に移行したことによる価格統制令の影響を計算結果に反映させなかったためであると考えられています。

しかし、アメリカの戦争指導の歴史において、計量経済学の分析が産業動員の計画の妥当性を判断するための根拠として使われたことは、その後の軍事学の分野として防衛経済学(defense economics)という新しい研究領域が発達することになります。第二次世界大戦の最中においては、まだ防衛経済学という分野は存在していないものの、このような歴史的な経験から経済学を軍事の問題に応用する慣行が積み上げられてきたことが分かります。

参考文献

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武内和人|戦争から人と社会を考える
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