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文献紹介 なぜヒトラーは情報戦に敗れたのか:Hitler's Spies(1978)

2024年1月、軍事情報の歴史を専門とする歴史学者デイヴィッド・カーンが亡くなりました。彼の主著である『暗号戦争(The Code Breakers)』(初版1967年、邦訳1968年;1978年)は軍事暗号史の古典であり、1996年には新たな章が追加された改訂版も出版されています。カーンが特に関心を寄せていたテーマは第二次世界大戦の軍事情報史であり、『ヒトラーのスパイ:第二次世界大戦におけるドイツの軍事情報(Hitler's Spies: German Military Intelligence in World War II)』(初版1978年)は当時のドイツの軍事情報の失敗について考察したものです。今回はその成果について紹介してみたいと思います。

Kahn, D. (1985). Hitler’s Spies : German Military Intelligence in World War II. Collier Books.

第二次世界大戦を遂行したとき、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーはドイツ軍、ナチ党、各省庁の官僚組織、そして民間部門の4系統の情報組織を指揮しましたが、これらの情報組織の間には連絡調整がなく、情報活動の効率は劣悪でした。例えば、ドイツがイギリスに潜伏させた情報員のほとんどはイギリスの情報組織によって特定されていたことが1972年にマスターマンの著作によって明らかにされています(Masterman 1972)。カーンの研究は、こうしたドイツの情報活動の稚拙さの原因を明らかにしようとしたものであり、そこで政治的な理由により情報活動が劣化していた可能性が指摘されました。

1933年にドイツで政権を掌握したアドルフ・ヒトラーは情報組織を自らの権力の源泉の一つと捉えており、これを政治的に操作していました。ヒトラーはあえて複数の情報組織を競争させ、自分が特定の情報組織に依存しないように注意を払い、相互の連携を阻害しました。この点についてカーンは「嫉妬深い閣僚、傲慢な党幹部、高級司令部の誇り高い軍人は、自らの情報を総統に届けようと躍起になった。ヒトラーはそれを望んでいた。不和と対立があったからこそ、ヒトラーは情報組織に対する統制権を握ることができた」と述べています(Kahn 1972: 63)。このため、ドイツの情報組織には「非効率」と「狂人への服従」という二つの現象が発生したと説明されています(Ibid.)。

具体的にどのような問題が生じていたのでしょうか。まず、ドイツは第二次世界大戦が勃発する前に重要な軍事情報を収集するため、友好国や同盟国と協力し、その駐在武官から資料を得ようと努力していたことに注目してみます。ソ連では検閲が厳しく、資料の収集が非常に難しかったのですが、アメリカでは新聞から重要な資料が楽に入手できました。そのため、対外的な情報活動を展開する上でこうした国々に駐在武官を送り込み、情報活動に従事させていました(Ibid.: 76)。この駐在武官の情報活動は隣国に及ぶこともあり、例えばドイツ軍がスペインに送り込んだ駐在武官はフランスの情報を獲得する活動にも従事しており、軍事技術に関するものから、政治全般に関するものまで幅広く扱っていました(Ibid.: 77)。

こうした駐在武官の努力によって、戦前からドイツ国内の軍人は他国の軍事的能力について重要な情報を入手することができていました。例えば1936年9月9日にハインツ・グデーリアンはイギリス軍の歩兵と戦車の連携を可能にする通信手段がどのようなものであるのか情報を要求したとき、イギリスの駐在武官だったガイヤー・フォン・シュヴェッペンブルクはイギリス陸軍で前年に実施された機動演習における戦車の報告書に基づく情報を提供しました(Ibid.)。このような情報活動は先進的な軍事技術に関する情報をもたらすこともあり、アメリカの技術者ロバート・ゴダードが独自に取り組んでいたロケット開発の動向についてもアメリカの駐在武官フリードリヒ・フォン・ベッティヒャーを通じて1936年1月7日にドイツ本国へ報告されています(Ibid.)。

しかし、こうした駐在武官の情報は他の情報組織と連携できなかったので、重要な事実を見誤ることもありました。ヒトラーが自分の見解を正当化するような情報を好んだことも、このような誤認の傾向を悪化させました。アメリカに赴任していたベッティヒャーは、ヒトラーと同じような世界観の持ち主であり、ユダヤ人がアメリカの政治を支配していると信じていました。彼はアメリカのローズヴェルト大統領は「ユダヤ人の代弁者」であり、「金とビジネスの力についてユダヤ人の考え方の枠組みに従って行動していた」と解釈していました(Ibid.: 81-2)。こうした反ユダヤ主義の偏見を持った人物を情報勤務に配置すると、情報活動に重大なバイアスを引き起こす恐れがありました。

1939年にドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦を引き起こしてからベッティヒャーはヒトラーの従来の見方と合致するようなアメリカ情報をますます発信するようになりました。例えば1940年の報告では、アメリカでは厭戦の機運が高まっており、アメリカがイギリスに物資を届けることは不可能であると彼は報告しており、イギリスは間もなくドイツに屈服するという当時のヒトラーの見方を擁護していました(Ibid.: 82)。また、ベッティヒャーは1940年9月にアメリカが優先しているのは太平洋における日本の脅威に対応することであるとの情報を提供し、日米開戦が差し迫った1941年11月の時点でもそれと同様の見解を繰り返していました(Ibid.)。アメリカがイギリスに軍事基地と引き換えに駆逐艦を提供した際には、これを空虚なジェスチャーと軽視したのも、この局面でアメリカがドイツに対して大規模な軍事行動をとることはないというベッティヒャーの思い込みによるものでした(Ibid.: 83)。

無論、ドイツのアメリカ情報は駐在武官だけが頼りだったわけではありません。第二次世界大戦が勃発してから、ドイツはアメリカとイギリスの首脳間通信を傍受するため、オランダの沿岸部に拠点を設け、1941年の秋からリアルタイムで監視していました(Ibid.: 172-173)。しかし、この情報源から得られた情報は具体性が乏しいため、連合国の戦争計画を解明することに繋がるような資料は得られませんでした(Ibid.: 176)。この情報を閲覧できたのはヒトラーだけであったため、他の情報組織がこれを他の資料と交差させることで、より深く分析するといった運用も不可能だったため、情報活動の成果は限定されました。カーンはヒトラーが情報戦で失敗したのは、彼個人の指導によるものというよりも、彼の支配体制の構造に由来していることを明らかにしています。

参考文献

Masterman, J. C. (1972). The Double Cross System in the War of 1939 to 1945. Yale University Press.

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