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勝っても負けてもどっちでもよくない?



負けず嫌いな後輩がいる。
人生って勝ち負けじゃないと思うな、なんて言った日には『でも尾崎豊も利根川も勝ち続けろって言ってますよ』と返ってくる。
ごめんカイジ読んでないや。

負けず嫌いは素敵だ。人生で勝ちを目指したり負けないように自分を維持できることは素晴らしい。
でも、社会における勝ち負けなんてマボロシだとわたしは思う。肩書きは役割だし、年収だって高ければ高いだけいいということではない。

人間って必要性があるから頑張れるのだと思う。漠然としたものを追いかけても、どこかのタイミングでふと思い直して離脱するようにできてる。
あるに越したことないとか、なれるならなりたいとか、そういうものは長いこと追い続けられないようになってると思うのだ。

そういう意味で、世の中に存在する"勝ち組"とか"ハイスペック"とかいうワードはこの漠然としたものを追い求める理由になってしまうと思うのだ。そりゃ下より上のほうが"なんとなく良さそう"だもの。
だけどそうして他者を意識すると、このマボロシの波に乗っかってしまいやすい気がする。


20代半ばのわたしはこのタイプのまさにど真ん中だった。

幸いわたしには、前述したようなことを教えてくれる先輩や父がいた。
たとえば彼らは『お金を稼いで偉くなってどうなりたいの?』と何度も問うてくれたと思う。
わたしは 「どうなりたいかだと...?えらくなってお金をいっぱい稼ぎたいです(目バキ)」と思っていた。

そのためそれなりに頑張って働いていたと思う。
初めて役職があがった時はドーパミンがそりゃあもうドバドバでたし、代官山などに住んではコーヒーを片手に食べもしないフランスパンを買いに行ったり、訳知り顔でJoëlRobuchonやL'Osierに行って味の違いもわからない高いワインを飲んだ。

だが結局のところ、わたしにはそれらの感動を表現できる語彙なんかなかった。つまり分不相応の経験をしたのだ。
自分で自身の相応を知らないと、漠然と"もっと上"を目指している状態が続く。そして自分はあとなにがどのくらいあれば幸せなのかわからなくなるのだ。
これは仕事や恋愛や交友関係にもたぶん同じことが言えると思う。

世の中に溢れる勝ち負けの波に乗っかっても、結局は自分に相応なところに戻るようにできてる。
だからよい子はドーパミンに人生を支配されちゃいけないよ、中毒性があるからね。
世の中が決めた勝ち負けなんてどっちだっていい。SNSでいいねがつかなくたって自分の幸せを淡々と積み上げているひとのほうがよっぽど"映える"と思うのだ。


さてカイジでも読むかな。


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