【映画解釈/考察】黒沢清監督『CURE』「秘密の部屋(エス)の存在を自我に認めさせるCURE(癒し)」
『CURE』(1997)
『クリーピー 偽りの隣人』(2016)
『カリスマ』(1999)
『殺人の追憶』(2003)ポン・ジュノ監督
黒沢清監督と言えば、普段私たちが、意識していない存在を、見事に、顕在化させる精緻な脚本が特徴的です。今回は、そのような作品の中から、代表作の一つである『CURE』を考察します。
『CURE』のプロットとリンクする童話『青髭』
冒頭、女優の中川安奈さんが演じる高部の妻が、カウンセリング中に声に出して読んでいるのが、ヘルムート・バルツ著の『青髭‐愛する女性を殺すとは?』という本です。
『青髭』は、グリム童話の初版に収録されていた1篇で、シャルル・ペローの童話にも収録されています。ヘルムート・バルツはユング心理学の研究者で、この本は、『青髭』をフェミニズムの視点から精神分析学的に考察したものです。
この本を映画の冒頭に持って来たのは、童話『青髭』の内容が、この作品のプロットや主題と密接に関連していることを暗示するためと考えられます。
『CURE』との関連を考察をする前に、まず童話『青髭』の大まかな内容を簡単に説明します。
最初に、青髭と呼ばれる大金持ちの男が、ある家の前で、その家の娘に結婚を申し込みます。大金持ちから求婚されたために、父親たちはそれを受け入れようとします。ただ、『CURE』の中でも出てくるように、青い髭だけが、娘にひどく恐怖心を与えるものだったので、何かあったら兄たちが助けに来ることを条件に娘も承諾します。
結婚後、青髭は娘を妻として優しく扱い、娘は問題なく生活をしていましたが、ある日、青髭が外出することになり、娘に家の鍵が付いた束を渡たし、こう言います。「留守の間に、この鍵を使って家中の部屋を見て回っても良いが、この小さな鍵の部屋だけは決して開けるな」。そう言って青髭は出ていきます。
娘は鍵を持って、家中の部屋を見て歩き回りますがが、どうしても我慢できなくなり、小さな鍵の部屋を開けてしまいます。覗くと、その部屋には、青髭の殺された前妻たちが壁に吊るされていて、それを見て驚いた娘は、不意に鍵を落としてしまいます。娘は、鍵を拾い、慌てて部屋を出ますが、鍵に付いてしまった血は、どうしても落とすことができません。
そこで娘は、鍵を隠すことにしますが、帰ってきた青髭には言い訳が通じず、殺されかけます。そこで、打ち合わせていた通りに、兄たちに助けを呼び、娘は青髭を殺します。そして、小さな鍵の部屋に青髭を吊るし、青髭の屋敷や財産を、娘たち兄弟が引き継ぎます。
この話で、まず第一に重要なのは、青髭が、最初から秘密の部屋を明らかにするために、意図的に、鍵を渡している点です。
そして、第二に重要なのが、最終的に、娘が青髭を殺し、秘密の部屋に青髭を吊るした上で、青髭の家を受け継ぐ点です。
つまり、青髭は、秘密の部屋を明らかにするための存在であり、さらに秘密の部屋を見た者は、落とせない血が象徴するように、まるで感染したかのように、秘密の部屋のある屋敷に囚われてしまうストーリーであると解釈することができます。
これが、『CURE』のプロットと一致しているわけです。
秘密の部屋を明らかにするための存在としての青髭=間宮=高部の妻
まさに、『CURE』においては、間宮が青髭として、秘密の部屋を明らかにする役割を、果たしています。
つまり、間宮は、加害者に接触し、加害者の秘密の部屋を開けさせる橋渡しをしているわけです。
では、なぜ、間宮がそのような存在であり得りえたのかということになります。
それを考える上で、間宮の精神症状が重要なポイントになります。
結論から言うと、間宮は、自我を喪失している人物であるからだと言えます。
そして、間宮を、そのような状態にするために使われているのが、メスマー(メスメル)の催眠療法です。
メスマーは、ドイツ人医師で、動物磁気説(メスメリズム)を唱え、精神療法や催眠療法の先駆け的なことを行った人物として知られています。
動物磁気とは、自然の中に存在する流体性の磁気で、体内においてその磁気が乱れると、精神疾患を引き起こすというものですが、現在に至るまで動物磁気の存在は証明されていません。
しかし、その後、メスマー(メスメル)の考え方を引き継いだ、ピュイゼギュール侯爵らが、催眠療法の方法を確立し、人為的に夢遊病を引き起こすことに成功します。
まさに、これが、間宮の状況に類似しています。間宮は、夢遊病患者に近い存在として描かれています。その証拠の一つに背中の火傷(熱さに気づかない)などがあります。
そして、間宮は、自分の現在の状況について、「前は、俺の中にあったものが、今は、全部外にある。だから、中にあるものがすべて見える」と発言し、そのことによって自分が楽になれたから、加害者や高部たちもそうすべきだと唆します。
つまり、間宮は、自我を見失う(俺は誰だ)状況を自ら作り出していることになります。
加害者たちが自我を一時的に奪われる存在であるのに対して、間宮は、自我を恒常的に失くしている存在であると言えます。
さらに付け加えると、自我を失くした存在とは、秘密の部屋が恒常的に開放された存在であると言うことができます。
そして、間宮の他にもう1つ、青髭と同じ意味を持つ記号的存在として、腕と足をX型に交差させたサルのミイラが、映画の中に、度々登場します。
この記号は、無意識下に存在していた秘密の部屋=X(未知なるもの)が表出する際の、サインとして描かれています。
その具体例の一つとして挙げられるのが、高部がX型に交差したミイラから、妻の首つりを連想する場面です。これは、秘密の部屋の壁に吊るされた妻たちを連想させるものですが、実は、高部の妻が間宮と同じ立ち位置の存在であることを示しているものと考えられます。
なぜなら、高部の妻も、間宮と同じように、夢遊病患者のような描写がされており、自我を失いつつある存在といえます。
さらに、高部が間宮を殺した後に、高部の妻のいる療養施設が映し出され、高部の妻がまるで、X型に交差したミイラのような存在として、一瞬だけ移る場面があります。
つまり、ここから、間宮と同様に、高部の妻も青髭的な存在であると考えられます。
そうすると、自ずから、高部自身は、青髭を殺した妻に相当すると考えることができます。
さらに、間宮と高部の妻が同じ青髭的存在であるとするならば、間宮の催眠暗示に、高部自身がかからなかった理由も自ずと説明が付きます。
それは、高部自身の秘密の部屋が、高部の妻によって、予め開けられていたという仮説が成り立つからです。
フロイトの超自我とエス、警察官である高部と高部の妻
そして、ここからは、秘密の部屋とは、具体的にと何を表しているのかを考えていきます。
そもそも、間宮が催眠暗示をかける相手として選ばれているのは、教師、警察官、医師といった一般的に高い社会的規範を求められている人たちです。これは、意図的にピックアップされたものだと考えられます。そして、主人公の高部も警察官です。
しかし、加害者たちと高部が異なるのは、前述の通り、警察官という職務に誠実ではあるが、一方で、精神的に不安定な妻を抱えています。
これは、高部が間宮に告白しているように、コスモス(秩序)とカオスの中間に身を置いた存在であることが分かります。
間宮は、そのような高部を「俺の言っていることが理解できる」存在だと褒め称えます。
この状況や関係性を、フロイトの自我・超自我・エスに置き換えてみると、実にしっくりきます。
高部の妻=エス(イド)、高部=自我、そして警察官=超自我と置きかえることができます。
ラカンの言葉で置き換えると、高部の妻=現実界、高部=自我、警察官=象徴界になります。
さらに、正確に言えば、高部の妻は、高部自身のエス(イド)または現実界の存在を明らかにする存在であると言えます。
つまり、間宮は、超自我に支配されている加害者の自我を開放し、加害者の無意識化に潜んでいる、エス(イド)または、現実界の存在を明らかにする存在であると言えます。
したがって、秘密の部屋とは、エス(イド)または現実界の表象であり、Xとは、欲動の表象であると考えられます。
高部=青髭を殺した妻、CURE(癒し)=エス(欲動)の存在を認めること
しかし、この映画が、ただのホラー映画に収まっていないのは、間宮が評価するように、前述の通り、主人公の高部が、他の加害者と異なっているからです。
高部は、間宮の催眠暗示にはかかりませんが、間宮に対するいら立ちは抑えられていませんでさした。
隔離施設にいる間宮との会話の中で、間宮に「俺は妻を許すが、お前を許さない」と発言しています。これは、高部の妻と間宮は本質的には同じ存在(表象)であるにもかかわらず、高部はそれを受け入れられない状況を表しています。
しかし、その後、高部は妻を療養施設に預け、秘密の部屋=エスの存在を遠ざけたにも関わらず、それに反して、今度は、高部自身に変化が起き始めます。
それは、クリーニング店やファミレスにおいて、我を失っている状況から読み取ることができます。
これは、高部が自我を失いつつあること、つまり、高部も、妻や間宮と似たような存在として取り込まれつつあることを表しています。
その証拠に、佐久間が頭の中で、x型に交差したミイラを見た後に、高部の姿が現れます。
そして、間宮が最後に催眠暗示をかけた相手である、その佐久間が、秘密の部屋を封印するために自殺をしますが、その時には、もう高部の顔には、動揺や不安の表情は全くありません。
そして、高部は、Xのオリジナルが生まれた場所である、メスメリアン伯楽陶二郎の研究施設を訪れ、そこにいた間宮を、射殺します。
これは、まさに、青髭に嫁いだ娘が、青髭を殺す構図と重なります。
そして、高部は、間宮に対して、最後に、「お前が誰かを思い出せたか」と問いかけます。
前述のとおり、間宮は高部自身の秘密の部屋=エス(現実界)を明らかにする青髭的存在です。
それを踏まえると、ある仮説が、頭を過ぎります。それは、間宮は本当に存在していたのかという疑問です。
つまり、高部が、高部自身の自我に対して、「無意識化に押しやられていた秘密の部屋=エスを思い出したか」と問いかけているのではないかと考えられるのです。
そして、その後、蓄音機を回し、伯楽陶二郎らしき人物のメッセージ(催眠暗示)を聞きます。
このメッセージから読み取れるのは、卑し=癒し(CURE)であり、つまり、秘密の部屋=エスやリビドー(欲動)の存在を認めることが癒し(治癒)に繋がるという考え方です。
そして、実際、高部は、その後、何もなかったかのように、仕事をこなし、ファミレスで食事をしっかり取っている様子から、精神的な不安定さが無くなっているのを読み取ることができます。
この映画が、高部が青髭(間宮)を殺すことを通して、自我に、秘密の部屋(エス)の存在を認めさせることで、自我を回復させるCURE(治癒)の物語であることを暗示しています。
そして、私たち(映画の外部)に、秘密の部屋=エスの存在を認識させるかのように、ファミレスの店員が、突然包丁を握って歩いていく場面で、物語の幕が突然下がり、卑しはあけぼのの画像で、映画が完結しています。
秘密の部屋を明らかにする黒沢清作品
この映画だけではなく、黒沢清作品は、基本的に、人間の秘密の部屋を明らかにする作品が特徴的です。
青髭のストーリーを、直接的に連想させる映画として、2016年の『クリーピー 偽りの隣人』があります。これは、前川裕の小説『クリーピー』を原作としたものですが、まさに隣に住む青髭的存在が、秘密の部屋に誘い込み、最終的に、青髭的存在が殺されてしまいます。この映画の主人公も元刑事になっています。
また、『CURE』の2年後に公開された『カリスマ』でも、秘密の部屋の世界に取り込まれる刑事が主人公になっています。町(象徴界)から少し離れた山(現実界)に生えた「カリスマ」と呼ばれる一本の木が、青髭的存在として登場し、人間の欲動を次々と画面に映し出します。そして、この映画のラストでは、主人公の刑事が山(現実界)を降りようとすると、町(象徴界)が戦火で燃えていて、元上司に連絡すると、上司から「お前は何をしたのか」と尋ねられます。
そして、もう1つ付く加えておかなくてはならないのが、ポン・ジュノ監督の『殺人の追憶』です。
ポン・ジュノ監督が、公言しているように、『CURE』の影響を受けた作品で、雨の日に、「憂鬱な手紙」をラジオ局にリクエストする青髭的存在が登場します。
ただ、この映画が、『CURE』とはまた違って、興味深いのは、デヴィット・フィンチャー監督の『セブン』や『CURE』のように、青髭を殺さなかった点です。
このように、逆に、顕在化したものを頭にの中に放置し、余韻を残したまま作品の幕を降すのが、ポン・ジュノ監督らしい気がします。
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