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❖「ノベル」な書き出し「述べる」だけ(第23話)❖ まいに知・あらび基・おもいつ記(2023年8月25日)

(小説っぽい書き出しで表現してみるシリーズ)

【記事累積:1679本目、連続投稿:705日目】
<探究対象…教育実習、能動と受動、アウェイ感、悔しさ>

「東京学習院大学」
私の出身校はそう記載されていた。記事を書いた人の個人的なチェックミスだったと思いたかったが、複数の人の確認を経て発行されたものなので、その可能性はないだろう。

ちょうどそのとき、新聞紙面ではコソボ紛争の記事が連日上がっていた。それとは比べ物にはならないが、自分の中では壮絶な日々を送っている感覚だった。

母校での教育実習である。

母校は函館にあるため、住んでいた家から通うことはできないし、実家からも遠く離れている。しかし寮があるため、実習生はその期間中、寮に宿泊させてもらえる。卒業した後で寮に宿泊するというのはめったにない経験である。ただ授業準備に追われ、懐かしさに浸る余裕はなかった。しかも指導役の先生の提案で、当初に担当する予定だった学年の授業だけでなく、別の学年の授業も担当させていただくことに。大変ではあったが、その後に教員となり、現在も続けられているのはそのおかげである。

そんな実習の途中、実習生と寮生の交流会があった。先輩として、大学のことを話したり、勉強のアドバイスをしたりする講演会と、全体での質疑応答、さらに会終了後の希望者による個別相談。この会で私が経験することの予兆が、校内新聞の実習生紹介号の記事だったと思う。実習生紹介号では、そのとき参加していた10名程の紹介記事が載っていた。名前や出身大学、出身地、担当教科、高校時代の部活などが記事内容。

そして私の記事の中の出身校が「東京学習院大学」となっていたのである。このような記載になったのは、大学の知名度というよりも、自分の授業そのものやそれ以外の時間でのやり取りで、私自身が彼らに興味をもってもらえなかったことが影響していたのではないか。寮内ですれ違う一瞬の関わり、朝の挨拶や何気ない一言、休み時間のコミュニケーションなど、こちらからの積極的、能動的な働きかけが欠けていたのだろう。せっかくの教育実習にも関わらず、踏み込みきれない自分がいた。

そういった一連の積み重ねと、記事の誤記そして誤記に気づかなかったこととは無関係ではなかったと思う。紹介号が配布され、それを見たとき、悔しかったし、情けなかった。正直、恥ずかしささえあった。

寮の交流会は、そんな心の傷口にもっと塩が塗り込まれた形となった。実習生がそれぞれ大学生活の様子、勉強のアドバイスなどを話していく。私も同じように話したが、全く憶えていないので、おそらく刺さる話などできなかったのだろう。全体での質疑応答では、私に質問は来なかった。そんな状態だから個別相談の列が私の前にはできることももちろんなかった。本当に皆無であった。

個別相談の列ができている実習生は質問に答えるという「受動」によって、列ができていない実習生の多くは自分から踏み込んで寮生と会話するという「能動」によって、会場内で積極的なコミュニケーションを成立させていた。

悔しさ、悲しさ、情けなさ、恥ずかしさがごちゃ混ぜになったその感情をうまく整理できない私は、その渦の外で自ら踏み込むことはせず、かといって耐えながらそれを眺めることもせずに、会場だった食堂を後にした。

ネパールの小学校での出来事と、教育実習での出来事は、アウェイ感のインパクトによって見事に繋がっていた。ただ、ネパールではその場で自己防衛を試みた。ネパールでの他の活動を振り返って見ても、自己防衛する自分の姿が随所に見られた。

前回を受けての書き出し部分が【課題の設定】
そのあとの部分が【まとめ・表現】
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【本日はここまで、以下は補足、蛇足?】
私が教育実習で母校を訪れたのは1999年5月頃だったと思います。国際法ゼミに所属していた自分は、連日新聞紙面に掲載されるコソボの深刻な状況が気になっていましたが、その深刻な状況と自分が教育実習で置かれていた状況とがなぜか繋がっていました。【情報の収集】

自分の教育実習は本当にひどいものでした。当時の自分は色々な勘違いだらけだったのです。授業内容、授業方法、板書事項など全てに関してズレていたのです。大学4年生になって教育実習に行くまで、塾講師や家庭教師のアルバイトの経験は一度もなく、人前で授業を行った経験といえば、教職課程の科目で行った数回の模擬授業だけでした。【情報の収集】

そのため実習の最後の方で行われた研究授業を参観していただいた先生からも手厳しいコメントばかり。在学当時の私を知っている先生方のコメントは多少手加減があったように思えますが、私が卒業した後に赴任した若手の先生からは「全然ダメ、教師は目指さない方がいい」という攻撃力抜群のコメント。これは本当に悔しくて、そのあと急いで家庭教師のアルバイトを始めたのでした。【情報の収集】

私の当時の授業を思い出してみると、まず授業内容は自分が調べた内容をどれだけたくさん盛り込めるかということばかりにこだわっていました。次に授業方法はほぼ「独演」。発問は準備していたものの、導入でいくつか投げかけた後、自分の「独演」が始まってしまうと、発問を忘れてそのまま最後まで。また発問に対する回答の想定不足で、自分の思い描いた回答が出てこない状況を煩わしく感じてしまって、発問を工夫することには考えが及ばず、安易にも発問を避けるようになっていきました。これらもひどいのですが、もっとひどいのは板書事項だったと思います。当時の授業については、「アンラーン💣リラーン📚ためらわん♫」で詳しく分析するとして、とにかく一方的な授業だったわけです。【整理・分析】

その一方的な姿勢は、私のコミュニケーション能力の乏しさを象徴していたと思います。発問を通じて授業が活性化されるということにも、考えが全く及んでいませんでした。授業は自分の知識・情報をどれだけ示すかが肝だと勘違いしていました。そんな調子で、授業前後の時間などもほとんど生徒と会話していなかったと思います。もちろん休み時間と授業時間の切り替えは大切ですが、休み時間などでの生徒との関わり方を上手く利用すると授業にも良い影響があるということに私が気づくのは、もっともっと先の話だったのです。【整理・分析】

そうしたコミュニケーション不足は、生徒の私に対する関心の低さに繋がったと思います。多分、授業の最初の頃に出身校を話したと思うのですが、そのときの情報を曖昧な形で受け取り、校内新聞の記事にしていたのではないでしょうか。その関心の低さは寮で行われた交流会にも影響を及ぼし、私には全体会でも個別相談でも一切質問がありませんでした。これが私の消極性に起因している以上、生徒たちからの質問という形で「受動的」に生徒と関わることができない時点で、それよりもコミュニケーション能力が求められる「能動的」な関わり方に向かうはずもなく、そのアウェイの空気の中に留まれるような心の強さを持っていない私は会場から逃げ出したのでした。【整理・分析】

ここまでの話だけだと、私がその後も教員になる思いを持ち続けたのは不思議に思えます。本当に、教育実習は良い思い出がありませんでした。教育実習というと最終日に生徒たちから色紙をもらうなど心温まる思い出も「あるある」かもしれませんが、自分の母校は男子校で高校でしたし、何かをもらった記憶はありません(欲しかったわけではありませんが)。しかし、研究授業の後のコメント、寮の交流会の状況、校内新聞の記事など、「非常に悔しかった」という言葉に集約されると思います。【整理・分析】

「人間はやはり、悔しい思いも経験しなければダメだと思う。 悔しい思い出の数だけ、人としての力が増すと言ってもいいかもしれない」
これはマラソンの指導者で、金メダリストの高橋尚子を育てた人物として有名な小出義雄の言葉です。【情報の収集】

小出氏のこの言葉のように、悔しい気持ちがエネルギーになった実感の一つが、教育実習だったと思います。たくさんの悔しい思いをしたわけですが、それで心が折れてしまうどころか、それを原動力にして「教員になって見返してやるんだ」という気持ちがどんどん膨らんでいきました。それが家庭教師のアルバイトの申し込みに繋がり、自分の考えの伝え方について一から見直すきっかけにもなりました。【整理・分析】

このように教育実習での経験は、現在も教員を続けている私にとって大きな出来事だったのですが、「三つ子の魂百まで」という言葉があるように、教員になってからも私の根本的な課題が解決したわけではありません。その象徴的なものの一つがネパールの小学校での出来事だったわけです。コミュニケーション不足に起因した私の自己防衛は、ネパールでの他の活動でも如実に表れることになるのでした。【まとめ・表現】

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