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▼哲頭 ⇔ 綴美▲(12枚目とアインシュタイン)

(哲学を美で表現するとしたら?美を哲学で解釈するとしたら?そんな思いをコラムにしたくなった。自分の作品も含めた、哲学と美の関係を探究する試み。)

今日の1枚は、学生時代にペイントでマウスのクリックを繰り返し作成した絵である。当時の自分がこの絵につけたタイトルは『パラダイム』であった。

「パラダイム」という言葉が一般的に知られるようになったのは、アメリカの科学史家トーマス・クーンが提唱したことによる。彼によれば、「広く人々に受け入れられている業績で、一定の期間、科学者に、自然に対する問い方と答え方のモデルを与えるもの」がパラダイムであった。しかし、最近では「或る時代・或る状況において支配的である考え方や物の見方」というような意味合いで使われることが多くなっている。

パラダイムというものが時代や状況によって転換するのならば、それは絶対性・普遍性を持つものではなく、あくまでも或る条件下で成り立っているものであって、俯瞰すれば、相対性・多様性の世界の一部分を示したものにすぎない。それは木と空という一枚の絵を世界全体としてみたとき、縦線と横線が作り出した区画の中が、ペイントの塗りつぶしの機能などを用いると、青空が明るくなったり、暗くなったり、時には赤くなったりするという転換の姿に似ていると私は思ったのである。

それぞれの区画が、或る時代・ある状況であるが、区画同士は影響し合わない。それゆえ、区画内の色はその時点でのパラダイムとしてそれぞれに支配的なのである。区画内に留まっていれば、他の区画の色は分からないから、今存在している区画の色に疑問を持つこともないだろう。だが絵全体として俯瞰すると、違いがはっきりする。

区画ごとの色は「違い」であって、どこかの区画の色が正解で別の色が「間違い」ということではない。しかし、濃い青色の区画の中ならば、その青色が支配的なので、そこに赤色がこぼれ落ちると、それは「間違い」とされてしまうだろう。

私は幼いころから、このこぼれ落ちた赤色のような経験をしてきた記憶がある。その状況は大人になっても変わっていない気がする。例えば、ポスターやパンフレットを作成する仕事に関わるとき、その話し合いの場面で、他のメンバーが良いと思った色合いや構図と一致することがめったにないのである。

色合いにしても、構図にしても、基本線になるような考え方・理論はあるのだと思うが、そういうものをしっかり学んだことのない私は、自分の感性に従って、これが良いと選択するものの、それがことごとく一致しないのである。

ただこういった話し合いのときに求められるのが、色合いや構図の基本線になる考え方・理論だとしたら、わざわざ個々の意見を聞く必要があるのだろうかと思ってしまう。考え方・理論に立脚して答えを出すのは、理性の範疇である。それは調べることでたどりつく。しかし意見を聞くのならば、感性が問われているように思うので、私は自分の感性に合致するものを選んでいる。残念なのは、感性で選んだものについて、理性での説明が求められることである。すると私の説明は、考え方・理論と関係が希薄だったりする。そして希薄な関係性が、説明の綻びであるかのような展開になっていく。そうして結局、考え方・理論と密接に繋がっているものが話し合いの結論になる。

「常識とは 18 歳までに身につけた偏見のコレクションでしかない。」
これは物理学者のアルベルト・アインシュタインの言葉である。常識というものがアインシュタインのいうように偏見の集合体だとすれば、理性の話の中に出てくる考え方・理論もその時代において集められた多くの人が共有している偏見の一つではないだろうか。ただし、多くの人が共有する偏見であるがゆえに、「量的な優位性」の下で、それは多くの人が共有する「常識」と呼ばれる特別な地位を与えられる。だが、それはあくまでも「量的な優位性」によるものであって、「質的な優位性」を担保していないのである。

それぞれが集めた偏見のうち、個人にとって重要で「質的な優位性」な持つものは、常識よりも「こだわり」という名前を与えた方がいいかもしれない。感性というものは、この「質的な優位性」と繋がっているように私には思えるのである。

そんな「感性」、または「質的な優位性」、もしくは「個性」というものは、常識という枠に押し込められないものである。

こういった話をするとき、「十人十色」という言葉が出てくることが多い。しかしこの「十人十色」という言葉も使い方については気をつけないといけないと思う。

それは、「十人十色『の』パラダイム」はありがたいことだが、「十人十色『が』パラダイム」となってしまっては、それによって苦しむ人が出てくるということである。前者が多様な生き方があっていいというくらいのソフトな話であるのに対して、後者は他者と差別化される要素を何か見出さねばならないというハードな話だからである。個性は容認されるものであって、強要されるものではないからである。

だから、今日紹介した絵についても、それぞれの区画を必ず異なる色にしなければという思いを持たずに私は作成したため、所々同じ色である。別にそれでよいのである。隣同士は異なる色にしなければ、そんなことも意識しなくていいのである。

個性を容認し、決して強要しないというのは、同じであることを正解と決めつけず、異なる色であることも正解と考えるという話では不十分である。異なっているから正解なわけではなく、同じだから不正解なわけでもないという話も必要である。

それこそが「十人十色『の』パラダイム」だと思う。

ここまで、かつて作成した絵に込めたパラダイムへの思いについて考察してきた。このような或るパラダイムの中にこぼれ落ちて抱く違和感のようなものは、最近、自分の生き方・考え方についても当てはまるような気がしている。確かに、根無し草のごとく、住む場所や職場を転々としているので、人生設計に何らかのパラダイムがあるとすれば、私の生き様が持っている色は異なって映っているだろう。

そこで、最近は自分を何者として打ち出せばよいか考えるようになっていて、『旅人』や『探究人』というフレーズは外せないように思っている。旅は、色々な国・色々な地域を転々とするだけでなく、安定した職場に留まらない状態も或る意味で旅なので、そういった多面的に旅をしている生き様を総合して「旅人(たび・びと)」なわけである。

それから、幼いころからナゼやナゾに興味・関心を示し、それを突き詰めて考える姿勢は大人になっても変わらず、それがこれまで勤務してきた学校で探究学習を企画・運営したり、自分が開発した探究ワークシートを学校の先生方に提供したりすることに繋がっている。だから、自分は「探究人(たんきゅう・びと)」でもある。

さらにSNSという世界で、文字を綴り、詩を並べ、絵を描くといった様々な表現活動を好き勝手にしているわけだが、私の中ではそれぞれは別個の表現活動ではなく、いずれも或る整然とした形が先にイメージされていて、それを具現化する際に、時に文字、時に詩、時に絵となっているにすぎない。私にとっては、いずれも同様に整然とした形、美しさが備わっている形を具現化しているだけである。だから、私は常に美というものに囚われている「耽美人(たんび・びと)」でもあると思う。

旅人であることによって、私は様々なことに気づくきっかけを得ており、【課題の設定(第一段階)】に繋がっている。そして旅を通じて広がる見聞は、【情報の収集(第一段階)】として重要な意味を持っている。そんな旅での気づきと見聞が無秩序にならないように、探究人としての意識が一定の方向性を与えてくれていて、これが【課題の設定(第二段階)】となっているし、その後の検証を見据えた補強・補足的な【情報の収集(第二段階)】の呼び水の役割を果たしている。それらを踏まえて、ヴェン図やらマトリクスやらデータチャートやらを駆使して考察したくなるのも探究人ゆえであろう。その考察は【整理・分析】そのものである。最終的には、耽美人として自分の感性も用いながら、気づきから考察までの一連の動きを可視化・具現化することになるが、これは【まとめ・表現】である。つまり私の3つの側面は、探究の4つのプロセスを体現しているわけである。

そんな3つの側面である「旅人」「探究人」「耽美人」のイメージも作ってみたくなった。文字の位置関係とか、色合いとか、全体的な構図とか、自分の感性では整然としたイメージが具現化できていると思うのだが、多分、他の人が見たならば、あれっと思う部分がたくさんあるのだろう。

最適解が何なのか、そういう理性の話は置いておいて、とにかく自分の感性が現時点においてたどり着いている解(最適解ではなく「適当解」だろうか)なのである。状況・心境が変わったり、時間が経過したりすれば、また作り直せばいいと思っている。

「十人十色『の』パラダイム」は、自分という存在の中にも存在する。状況・心境・時間の変化によって、同じ人間だとしても色は変わるものである。それぞれが異なる人格だと捉えれば、それもまた「十人十色『の』パラダイム」でよいわけである。

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