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人生甘くないよ!たけし日本語学校奮闘記 第7話 「ゾマホン絶体絶命!?」

2003年9月1日、西アフリカベナン共和国で「たけし日本語学校」を開校しました。開校から今日まで、いろいろな事がありました。育った環境も違えば、年の差も15歳離れているベナン人と日本人の2人が、「たけし日本語学校」という1つの夢に向かって進む珍道中を数回にわけて書き進めたいと思います。※この話はすべてノンフィクションです。

前回

2000年から日本語学校をつくるために、これまでいろいろ取り組んできました。前回はベナンと日本の格安航空券を探すお話を書かせていただきました。そして今回はいよいよたけし日本語学校の開校のお話です。

たけし日本語学校の完成

2003年、ベナン共和国コトヌー市セントリタという場所に「たけし日本語学校」は完成しました。ゾマホンさんが出版した本の印税と、講演会などで得た収入をすべてつぎこみました。限られたお金だったので、20人程度入れる小さな吹き抜けの教室でしたが、僕たちにとっては夢と希望の教室でした。

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敷地内には日本語教師が住める部屋も準備しました。ゾマホンさんは日本人の先生が住みやすいようにと、お湯が出るシャワーとバスタブを設けました。その他、当時はインターネット設備もなかったので、せめてNHKはみられるようにと、外国から技術者をよんでパラボナアンテナも設置しました。秘書、コックさん、ドライバーさんも雇いました。下の図は2003年当時のたけし日本語学校の見取り図と、パラボナアンテナの写真です。僕がゾマホンさんと出会って3年。とうとう「たけし日本語学校」の建物は完成しました。僕が24歳のときでした。

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アフリカに行ってくれる先生は見つかるのか?

建物は完成しました。入学を希望する生徒も毎日のように増えていきました。あとは日本語の先生です。僕はゾマホンさんとの約束(第5話参照)のため、長野県で日本語を教えながら、休みの日は東京に行く生活を続けていました。

「山道さん、日本語の先生をみつけないといけないですね。」

「ゾマホンさん、なんとかしますよ。」

・・・・とは言いつつも、僕は以前、ゾマホン講演会を企画した際に大学やNGOまわりをしていて、アフリカを希望する日本語教師が少ないことは感じていました。そこで僕は自分が勤務している学校が、海外の日本語教育機関や大学と提携し、日本語教師を派遣していることに目をつけ、「たけし日本語学校」とも提携できないか本社に相談しました。

「山道、募集してみて、行きたい先生が見つかれば認める。」

「ありがとうございます!」

さっそく、学校内で「たけし日本語学校」の説明会を主催し、ゾマホンさんに来てもらいました。そうするとなんと1名の先生が名乗り出てくれました。派遣の手続などは担当する部署の方にやっていただき、あっという間にベナン共和国に日本語教師を派遣することが決まりました。

そして日本語学校は開校しました

2003年9月1日(月曜日)、ベナン共和国「たけし日本語学校」は1名の日本人日本語教師を迎え、開校しました。記念すべき日、僕は長野でいつも通り仕事をしていました。とても暑い日でした。その日、僕はたけし日本語学校開校までのいろいろな出来事を思い出していました。ゾマホンさんと初めて会った日のこと、ゾマホンさんが僕の手帳に「日本語教師は民間の大使です」と書いたこと、ゾマホンさんと2人で外務省にいったときのこと、大学や国際協力団体を1人でまわったこと、ゾマホンさんが僕に日本に残って欲しいと言われたことなど、いろいろ思い出していました。夢がかなった日なのに、とても複雑な心境だったことをいまでもよくおぼえています。

一方、現地では1,000人近くの入学希望者から、申し込みが早かった人を優先して入学させ、ゾマホンさんと新任の日本語の先生は開校式を行いました。現地ではサプライズがありました。ベナン共和国のケレク大統領がわざわざ日本語教師を大統領官邸に招いたのです。さすがにこのニュースは驚きました。

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絶体絶命

たけし日本語学校が開校して3週間が過ぎようとしていた時に事件は起こりました。

「もしもし、山道さん。ベナンに赴任した日本語の先生が日本に帰国したいと言っています。」

「えっ?」

それは日本語教師の派遣手続きをしてくださった、担当者からの一報でした。

「な、な、なにがあったんですか?」

「どうやら現地での生活があわなかったようです。いろいろ理由があるみたいですが詳しいことはわかっていません。ただ帰国する事は間違いないようです。」

頭が真っ白になりました。

思い返せば、日本語教師を派遣するまでが、あまりにもうまくいきすぎました。というよりも僕もゾマホンさんも焦りすぎていたのかもしれません。僕は心臓がバクバクする状態のまま、ゾマホンさんの帰国を待っていました。

9月末、ゾマホンさんはベナンから帰国しました。同時期に日本ではアフリカ開発会議Ⅲ(TICADⅢ)が開催され、アフリカから各国の首脳が来日していました。もちろんベナンからもケレク大統領が来日されました。ゾマホンさんの帰国後、僕は急いで東京に向かいました。ゾマホンさんはケレク大統領が宿泊されている赤坂のホテルの一室にいました。

ホテル

「ゾマホンさん、現地で何があったんですか?」

「山道さん、すみません。私も何が原因なのかよくわからんです。急に先生が帰りたいと言われたんです。確かに外国は文化が違うから、いろいろストレスに感じたのかもしれません。それは私自身もよく知っています。」

「もう、先生は日本語学校にはいらっしゃらないんですね。」

「はい、もういません。山道さん、ケレク大統領は日本語学校ができたことを喜んでくれました。ケレク大統領の周りの政治家たちの中には、私の行動をおもしろく思っていない人もいますが、私はケレク大統領に先生を紹介しました。ケレク大統領が会ってくれたのは私を信用してくれたからです。でも先生はいなくなり、日本語の授業はできなくなりました。私はベナンで信用をなくしました。日本語を学びたい学生たちからも信用はなくなりました。私はもうベナンには帰れません・・・・」

ゾマホンさんは僕に目を合わせることなく、ただ下をうつむいて独り言のように話をしていました。

(だから僕がベナンに行った方がよかったのに。)

当時、僕はそんなことすら考えられない状態でした。

それから数時間、二人は会話を交わすことなく、ただホテルの薄暗い部屋でうなだれていました。

2人がいる部屋には、ケレク大統領に随行してきたベナン人が廊下で楽しそうに会話をしている声が響いていました。

「もう、私はベナンに帰れません。」

ゾマホンはもう一度、つぶやきました。(つづく)

体験をとおしての気づき

・自分が正しいと思って行動しているときは、冷静さや客観性が失われる危険性がある

・どん底のときは、自分自身がどん底だと気づかない
 逆にどん底だと感じているときはどん底ではない。

・人生甘くない

・帰国した先生には今でも、申し訳ない気持ちしかありません。
 もっとちゃんと準備して、送り出してあげるべきだったと後悔しています。



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