人生甘くないよ!たけし日本語学校奮闘記 第4話「誕生」
2003年9月1日、西アフリカベナン共和国で「たけし日本語学校」を開校しました。開校から今日まで、いろいろな事がありました。育った環境も違えば、年の差も15歳離れているベナン人と日本人の2人が、「たけし日本語学校」という1つの夢に向かって進む珍道中を数回にわけて書き進めたいと思います。※この話はすべてノンフィクションです。
前回
2002年7月6日にゾマホン講演会を主催し、100名近くの方が参加されました。「たけし日本語学校」設立にむけて大きな一歩を踏み出しました。いよいよ日本語学校を建設・・・・?
お金はどこから?
ゾマホン講演会は盛況のうちに終わりました。チケットを配布しているときはいろいろな厳しい意見もありましたが、それでも興味を持ってくださる方もいらっしゃることがわかりました。
「ゾマホンさん、日本語学校をつくるのに、どれくらいのお金がかかりますかね?」
「私は以前にコトヌーという都市にジャパンハウスという名前をつけた家を購入したですよ。そのジャパンハウスの一部を教室にしようとおもっています。立地もいいから人は集まると思います。ただ教室に改築するにはお金は必要です。」
さっそく2人はどうやってそのお金を捻出するか考えました。
2人で話し合った結果、募金と寄付集めはやめようということにしました。なぜそれをやらないかというと、まだなにも始まっていないのに、人にお金をお願いするのは、都合がよすぎると考えたからです。
「とにかく仕事をして得たお金で教室をつくりましょう。あと、日本語学校は日本にとっても国益にもなるので、外務省に助成金がないか相談してみましょう。」
外務省での出来事
そうと決めたら、すぐに外務省にアポイントをとって、2人でいきました。
外務省には「草の根」などいくつか助成金があったので、担当官にそのどれかに日本語学校設立の件が申請できないか相談してみました。
担当官は「ゾマホンさん、ベナンで日本語学校をやっても、そんなニーズはないと思いますよ。それに授業料は無料にするんですか?どうやって経営していくんですか?そんな企画に助成金はだせません。助成金は最終的に自立した経営ができることが条件なんですよ。無理ですよ。」と、静かに言いました。
※ゾマホンさんは日本語の授業料を無料にすることにとてもこだわっていました。僕も最初は反対したのですが、これだけはどうしてもゆずれないということで、僕も腹をきめていました。
担当官の説明に対して、ゾマホンさんは「中国や他の国は、政府が積極的に海外に文化施設をつくったり、語学教室をやって、優秀な人材を自国に招聘しているですよ。日本はそういうことをやらないんですか?あと、授業料の無料は絶対です。ベナンのお金持ちだけが日本語を勉強するのは、それはダメ。私はビジネスで日本語学校はやらない。これは日本とベナンの大切な人材を育成するための学校ですよ。」
ゾマホンさんは中国の「孔子学院」なども例にとりあげ、文化交流施設が必要であることを熱く説明していました。
担当官は困ったように、「すみません。やっぱり将来的に自立した経営ができないとなると、難しいです。」
結局、話は進展せず終了しました。そして会議室から出る際に、担当官は僕にゾマホンさんと本当に一緒にやるつもりなのかを確認し、「やって3年もてばいいんじゃないかな。」と気まずそうな顔で忠告されました。
※これは実話なので、外務省や他団体の批判と思わないでください。当時、アフリカ大陸で日本語教育をしている国はごくわずかでした。北アフリカはカイロ大学などで盛んでしたが、サブサハラになると大学の中で日本語教育をおこなっているところはありましたが、「日本語学校だけ」というのは僕の知る限りありませんでした。当時53か国あったアフリカ大陸で日本語教育を無料でおこなう施設はなかったと思います。なので、外務省の担当官の意見は至極当たり前の答えでした。
2人で外務省をあとにして、地下鉄永田町駅まで歩きました。地下鉄の階段を降りる前に、2人は立ち止まって、簡単な会話を交わしました。
僕はゾマホンさんに「外務省ダメでしたね。この前はJICAでもダメだっていわれました。ゾマホンさん、どうしましょうか。」とたずねました。
するとゾマホンさんは、「私はお世話になっている日本のために役に立ちたいですよ。だから私は母国ベナンに日本語学校をつくって、母国ベナンの人たちに日本のすばらしさを伝えたいし、優秀な留学生を日本に送りたいですよ。それに私だけ、恵まれて日本の大学に留学できています。留学したくてもできないベナンの人たちにも私と同じような経験をしてもらいたいですよ。それは日本に留学できた私の責任です。私は必ずその責任をはたさないといけません。私だけ良い思いをしてはいけません。」
普段はおちゃらけたりするゾマホンさんが、この手の話になると突然、厳しい眼差しになりました。やっぱりこの人は本気なんだ。そう思いました。
「じゃあ、ゾマホンさん、まずは2人でやりますか?」
「やりましょう。外務省からはニーズはあまりないとかいわれましたが、日本語を勉強したいベナン人は、たくさんいると信じてます。私のことを信じてください。」
「わかりました。僕はゾマホンさんの言葉を信じます。」
僕は他にも助成金がないかいろいろ調べました。助成財団センターにも行き、資料を物色しましたが、どこも日本語学校建設の助成金は見当たりませんでした。国際交流基金にも相談に行きましたが、ダメでした。
結局、ゾマホンさんと僕は講演会の営業をとりながら、お金をためました。ゾマホンさんは確定申告をして、残ったお金をベナンに送金しました。
日本から送金したお金で、ゾマホンさんはコトヌー市に購入した家(通称ジャパンハウス)の一画に教室をつくりました。写真でもわかるとおり、そんなにお金はなかったので、壁は半分だけの吹き抜け、屋根はツギハギだらけのトタン屋根、黒板は近所で調達した鉄板を黒く塗ったものです。動画でも紹介していますので、もしよろしければご覧ください。設立して5年以上はたっている動画ですが、教室は設立当初のものです。
たけし日本語学校の施設紹介の動画
https://www.youtube.com/watch?v=IAvEdF6kr_A&t=2s
誕生
「ゾマホンさん、日本語学校の名前どうしますか。」
「やっぱり、たけしさんには恩があるから、たけし日本語学校しか考えられないよ。」
「ゾマホン日本語学校ではないんですね?」
「私の名前なんて必要ないです。日本人への感謝の気持ちだから、日本人の名前にしたいです。」
・・・・・
ゾマホンさんとバスの中で出会ってから3年。
ゾマホンさんと僕はとうとう、ベナン初となる「たけし日本語学校」の教室を完成させました。
教室はできました。次に生徒集めです。ゾマホンさんはベナンに一時帰国した際に、ラジオで日本語学校開校の呼びかけをしました。なんと驚いたことに、毎日のように入学希望者が学校にきました。その人数が1,000人を超えるいきおいでした。僕はゾマホンさんからその知らせを聞いて、信じられませんでした。
ゾマホンさんは「私を信じてくださいといったでしょ。必ずいるよ、学びたい人は。」ゾマホンさんのうれしそうな声が電話越しでわかりました。
あとは教材をそろえたり、カリキュラムをつくったり・・・いそがしくなるぞ。僕はあまりの展開の早さについていくのが必死でした。
そんな矢先、僕が昼間働いていた日本語学校の上司から突然、呼び出されました。
「辞令。長野県に転勤を命ず。」
「えっ??僕、長野??来月から???」
(つづく)
体験をとおしての気づき
・他人様の情報だけで一喜一憂してはいけない。本当に自分にとって必要な事であれば、自分の目で確かめないといけない。
・批判だけするのは簡単。それはそれで受け止めて、自分はどうするかが大事。
・ダメならダメなりに。無いなら無いなりに。なんとかする。
・授業料を無料にするはやっぱり無茶だった。でも必要だった。
・どうなる転勤?やっぱり人生甘くない。