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私的考察「仮面ライダー01に対するtweetから見える文化観と教育者の影」

9/1㈰ 「腹筋崩壊太郎」

9/8㈰ 「マモルくん」



これらは,日曜日の朝9時以降にTwitterのトレンドワードとして挙がったものである。

この日曜日朝9時というのは,テレビ朝日系列で「仮面ライダー01(ゼロワン)」が放送されている時間である。冒頭のワードのtweetに見られる文化観が,教育者として影の側面を映し出す。



まず,仮面ライダー01のイントロダクションを見てみよう。(公式サイトhttps://www.tv-asahi.co.jp/zero-oneより)



「大量のヒューマギアが心無き存在に悪用され、人類を襲う
飛電インテリジェンスが開発したAIロボ、ヒューマギア。
様々な仕事の現場で従順に働く彼らがやがて暴走する…⁉

飛電是之助の遺言は、人類が脅威するシンギュラリティなのか?


君の仕事は人類滅亡だよ。

滅亡迅雷.netの滅,迅は、ゼツメライザーとゼツメライズキーでヒューマギアに悪の魂を吹き込む・

私の仕事は、人間を…滅亡させること。


マギアと化すヒューマギアに密かに国家機関も対抗。
特務機関A.I.M.S.(エイムズ)の諫と唯阿は暴走するヒューマギア=マギアと戦う!
ヒューマギアは殺人マシン、残らずぶっ潰す!

対抗手段はただ一つ。

ゼロワンドライバーとプログライズキー
使用権限があるのは、飛電インテリジェンスの新社長、飛電或人のみ。

変身
或人は、仮面ライダーゼロワンとして戦う。

人々の夢と希望を守るため、ヒューマギアの可能性を証明するため。

お前を倒すのは ただ一人、オレだ!

戦いの先にある未来、それはAIとの平和的な共存か、人類の滅亡か⁉」


ざっくり言えば,人類の生活のために作られたAIロボが,悪の組織のウイルスで悪用され人類を襲う怪人になり,それを社長である主人公が倒すというストーリー展開である。

詳しくはhttps://www.tv-asahi.co.jp/zero-one/story/?02で期間限定で無料配信しているのでご覧頂きたい。現代社会のホットワードをテーマとする仮面ライダーらしい作品となっている。



冒頭のTwitterトレンドワードに戻る。

「腹筋崩壊太郎」も「マモルくん」も伴に人類の生活のために作られたAIロボであった。

第1話に登場した「腹筋崩壊太郎」は人を笑わせるお笑い芸人のAIロボ(演:なかやまきんに君)である。

また第2話の「マモルくん」は主人公の会社を警備する警備員型AIロボ(演:吉田悟郎)であった。



これらのAIロボは共通して,悪の組織から洗脳され(データを書き換えられ)て人々を襲う怪人となってしまう。



Twitterユーザーの心を揺らしたのは,両者ともにデータを書き換えるときの描写であったように見える。

悪の組織「滅亡迅雷.net」によって,人類の滅亡を行うようにデータを書き換えられているとき,AIロボたちは必死の抵抗を見せる。

腹筋崩壊太郎「できません…私の仕事は人を笑わせることだから…!」

マモルくん「この会社を守るのが…私の仕事です!」



AIロボの必死の抵抗も虚しく,データは書き換えられ,優しきAIロボたちは人々を襲うのであった。これら怪人化したAIロボは破壊するより他なく,仮面ライダーによって倒されていく。



こうしたシーンは,Twitterユーザーの心を打った。



人々を感動させた点としては,人々のために働く善の心が悪によって書き換えられていく中,それに抗い善を全うしようとする姿であったのではないだろうか。悪の組織と相対的に弱者であるAIロボが善を純粋に,愚直に貫こうとした姿が人々を感動させたように思う。



この文化観は,キャラクターは変わってもこれまでの文化の中に長く息づいてきた構造であると私は見えた。

例えば,源義経。彼は兄の頼朝と相対的に弱者であり,自らの信念の善を貫いて敗れていった。

または「世界の中心で、愛をさけぶ」(作・片山恭一)の主人公アキは,白血病を患い相対的に弱者となりながらも,オーストラリアに行きたいという信念を貫こうとしてかなわなかった。



これらの作品,人物像のように,我々は相対的な弱者とその信念の一貫性,その不現実性に涙をなくしては向き合うことができないという文化観を有しているように思う。今回の仮面ライダー01も例外なくその構造が人々の心に響いたのではないだろうか。



そして私が強く言いたいのは,この構造は教育の場で生じやすく,教育者の影のような形でつきまとっているということである。

教師と生徒との間には全くの平等な関係は作り得ない。生徒はあらゆる視点から相対的に弱者となりやすい。そして,生徒たちが一生懸命に頑張っている姿(信念の一貫性)は美しい姿のように映ることもあるだろう。ここまでは,必ずしも悪いことではないと思うが,最後の不現実性に感動するようであってはならない。

例えば,2019年現在においても部活動で目標のために一生懸命に練習をして,疲弊しきっている生徒の姿は残っている。目標のために努力することはよいとして,生徒たちが顔色悪く,身体を起すのも精いっぱいな程に疲れ切っている姿は本当に正しいのだろうかと私は疑問に思う。これは信念の一貫性を非効率的に利用して,不現実性を招くことで教師が悦に浸っているのではないかと警鐘を鳴らしたい。

生徒たちの信念の一貫性を現実的なものになるように支援していくことが教師の責務であるはずが,こうした感動の構造の下地(生徒が相対的に弱者であること)を無意識に利用し,自身の感動を構築しているのではないだろうか。

感動の下地があるからこそ,教育者は自身の感動に惑わされずに,その影を取り払った教育をするべきであろう。教育者は自らの弱さに向き合い,子どもたちを「腹筋崩壊太郎」や「マモルくん」のように怪人化させずに,1人ひとりを仮面ライダーのようなヒーローにしていかなくてはならない。

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