武満徹著作集1 所収『樹の鏡、草原の鏡』感想文
(武満徹著作集1には『音、沈黙と測りあえるほどに』と『樹の鏡、草原の鏡』の二つの著書が所収されている。今回は②と題して『樹の鏡、草原の鏡』の感想文を書いてみたいと思う)
ちなみに① 『音、沈黙と測りあえるほどに』の感想はこちら、
一見すごく美しい文章に思えるかもしれないけれど、実はこの文は武満さんの焦燥と苛立ちからきているものなのだ。
武満さんは邦楽(日本音楽のこと。武満さんの言う「邦楽」とは、「町=都会の性格が強い芸術的伝統音楽」、例えば江戸時代に大成した、義太夫節、長唄、常磐津、清元、富本など。それと、「村の音楽である民謡等」である)に出会う。
そして、武満さんは深く悩む。錯綜していく。
自分のルーツそのものが、自己を強く規定していたものが崩壊していく。
しかしそれはとっくにどこかで気づいていたのだ。しかし気づかぬふりをしていたのかもしれない。
自己のルーツがよりによって日本(日本人である自分)のルーツに破壊されるその武満さんの悲鳴が聴こえてきそうだ。
武満さんのいう「神」に近づこうとすればするほど、この現代社会においては、自分はますます傲岸になり、しかし、うたいたい(つくりたい)という欲求は止まらない。
武満さんの苦悩は今の作曲家およびクリエイターたちにもよくわかるのではないか?
武満さんは、音楽というものを本当は誰に捧げるべきなのかと悩み続ける。観客だけでいいじゃないかと思うかもしれないけれど、それだけでは納得がいかないというのが武満さんの業である。
そして、武満さんは「音楽」とは関係の中にあるものであり、またその関係をのぞむものであり、個人が所有できるものではないと考える。
武満さんの考えの根底には常に「他者」というものがあったのだ。
現代において音楽は無力かもしれない。社会変革などもっての外だというようなことを武満さんは言う。でも捨てることはできないとも言う。なぜなら武満さんにとって生きることの役割は音楽しかないからだ。
そして、武満さんは西欧と日本、二枚の「鏡」に挟まれながらこう宣言する。