『竹取物語』と『かぐや姫の物語』について考えていること
高畑勲監督のアニメーション映画『かぐや姫の物語』(2013)の疑問点というか不思議だったのはかぐや姫が原作の『竹取物語』より弱い……というより優しい人間として描かれていたことです。(2024.4.6改訂)
原作のかぐや姫は気高く計算深く高潔で、それでいてエロティックでもあり、女性として男に辛辣すぎるのではというぐらい強い。
文豪・川端康成が書いた『竹取物語』についての解説から引用するならば、『竹取物語』は「男女闘争の心理、人間闘争の心理」、「竹取物語は一個の男女闘争史、人間闘争史」であるとして描かれており、「妻争」の部分が『竹取物語』の白眉だとあります。
しかし、高畑勲監督の『かぐや姫の物語』はそこに重きを置いていない。むしろ貴公子たちを苦しませていいのだろうか死なせてまでして本当によかったのだろうかと激しく苦悩する場面があります。
そこ自体にエロティックさは全くなく、エロティックさがあるのは捨丸という姫の少女時代からの友人の青年との逢引(顕著なのは映画後半二人で空を飛翔するシーン)に寄せています。
もう一つ疑問としては、帝との交流があまりないということです。
原作では姫は帝を拒みながらも文を交わしていたり、最後には帝からの直々の命令で月からの使者を追い払おうとしたり、そしてそれらが全て無駄に終わった後、姫の方から不老不死の薬を手渡したりとありますが映画にはそれらが全くない。使者を追い払おうとするのも翁の策によるものに替わっています。
ということで、観た当時から疑問だった点をいくつかあげました。
ここからは擁護というか、では映画『かぐや姫の物語』は原作そっくりそのままにせず換骨奪胎して何を描こうとしたかについて書いてみます。
高畑監督が『竹取物語』の「本質」を捉えきれていない、分析できていないということは決して無かったのではないかということは「『竹取物語』とは何か」(映画『かぐや姫の物語』企画書の一部、二〇〇九年七月二十日」)という『アニメーション、折にふれて』(高畑勲著、2013、岩波書店)などに所収されている文章や、公開当時の雑誌、本のインタビューを読めばわかるはずです。
また、この映画のプロデューサーを務めた西村義明氏の証言によれば、「(前略)つまりこの映画は、平安時代の女性ではなく、平安時代のモチーフや風俗を借りて、そこに現代の女の子がポンと放り込まれたらどんな反応をするのかな?といったことを一方では書いているんです」とあります(雑誌『キネマ旬報』2013年12月上旬号より)。
つまりこの映画は一人の女性の一生を描いたドキュメンタリー調の物語なのですね。
ではこの映画はそのドキュメンタリー性でもって何を描こうとしたのでしょうか。
映画では明らかにかぐや姫と翁と媼の関係に焦点が絞られています。
かぐや姫は「子供」から「女性」になることが求められ、女性になれば容姿をはじめとした器が評価されます。そこに悪意というものはなく、翁でさえもそれを当然の如く求めるわけですね。
姫が一番大切にしたいはずの人=翁からさえも型に嵌められる辛さ。悪気のあるなしに関わらず権力をもった男たちによって、自由にそして普通に(あの映画で「普通」に暮らすというのは、端的に言って田舎暮らしのこと)生きられず追い込まれていく女性の機微が描かれていると思います。
高畑監督は、こうした女性の世に対する窮屈さや強固な価値観(それこそ「物語の祖」が誕生して以降も)に着目して、そして現代も尚それに苦しむ女性たちに一番に観てほしかったために、姫の人柄を冷淡にせず貴公子に対するふるまいについて苦悩するようにしたり、帝との関係を親密に描いたりせず、姫と翁と媼の関係を原作より親密に細かく描いたつくりにしたのかなと思います。
だから「女性はこうあるべき」「女性だったらこうあってほしい」といった憧れや理想はかぐや姫に入れなかったのだと思います。
なので映画のタイトルも『竹取物語』ではなく『かぐや姫の物語』なんですね。
「かぐや姫の心情を描く」というのが「現代の女性に向けて描く」ということに繋がっています。
ちなみにご承知の方は多いかと思いますが、高畑勲監督は、ただ単にメッセージを伝えるためだけに映画を作る監督ではありません。
アニメーションとしての表現手法の革新のために作品をつくってきた映画監督でもあります。
(2023.9.10 11:46 大幅に増補改訂)