現代は自己発信時代へと突入してしまったからこそ考える、店舗がネット上で騒動に巻き込まれたときの傾向と対策シリーズ Vol.1
・序文
まずなぜこんなタイトルをつけたのか?
それにはまず、今まで情報自体が大規模に整備された地点からの発信が最も影響力があった時代を振り返る必要がある。
ラーメン業界とテレビ業界を用いて例を挙げると、90年代はなんとラーメン特集の大晦日特番があった。いわばラーメンをテーマに年を越していた時代がかつてはあったのだ。そしてテレビの持つ影響力というのも凄まじく、それらの特番で紹介していただけるだけで、その店舗には随分な経済効果が生じていた。
だが自然とラーメン特集番組というのは元気を失っていき、いまでは大晦日をラーメンだけで乗り切るテレビ局など存在しなくなった。
まずテレビという分野からこの記事は論ずる必要がある。
・かつて『発信』という行為は、限られた者にしか許されない権利だった。
テレビはどんどんと視聴率が下落している状況だ。
その理由としてはもう皆が知り得ていることでもあるからこそあえて書かないが、新勢力のSNSはコロナの影響でますます力を得た気がする。
SNSは〝自己発信〟(私はこのことをよくアウトプットと呼ぶ)する場であり、インプット側である利用者はその情報の多種選択(テレビでいえば、チャンネルの切り替え)を行う。だがSNSがテレビと全く違うのが、インプット側もアウトプットの権限を持っている点……改めて書く必要はないが、こういった簡単な仕組みを深く自覚しているかしていないかで『自己発信の質』というは大いに変化するとおもっているし、だからこそ厄介極まりない。
アウトプット側の質が悪いと、インプット側の勝手な解釈や、偏見によって校正されてしまった情報が流出し、下手すればそれがウイルスのように力を持って拡散されるかもしれない。父が死去し、店を引き継いでから一三年経過したが、私は未だにこういった事故に遭遇するのではないのかと怯えながら仕事をしている部分がある。
少し前の事件ではあるが、こういったトラブルを引用しておこう。
この手のトラブルはいつか自分にも降りかかってくる可能性はあるだろうと考えている。私は中学の頃から父の店で働いているからこそ、この手のトラブルを多く目にしてきたから。勿論、私自身だって客人の理不尽なクレームに腹を立てて、この寿司屋の大将のような行動を取りそうになったことだってある──だからこそこの大将の気持ちは痛いほどよく分かる。それほど大将は仕事に誇りを持っているからこそ、いとも簡単に踏みにじられたことが許せなかったのだろう。
しかし反面、大将は〝自己発信〟に失敗してしまった気もしないでもない。この点を論ずるのは大将の苦しみを想像するだけで大変心苦しいが、この記事を成立させるために何卒お許しいただきたい。
・昔は『臭いものには蓋』でやり過ごせた
まだSNSが発展していない時代、日本のインターネットは5ちゃんねるがそのような役割を担っていた。5ちゃんねるにはラーメン板があり、そこには当店の専用スレッドまで立っていた。そして父はある出来事(この詳細は他の店舗名が出てしまうため、控えさせてもらう)をきっかけに、5ちゃんねるの専用スレッドの存在を知り、そして読んで字の如く死ぬまで憤怒し続けた。
私は父の命令でしかたがなくそのスレッドをよく目にすることになってしまった。正直、非常に嫌でしかたがなかった。当時中学生である私は、クソみたいな罵詈雑言をなぜ目にする必要があるのか? という疑問が解決できなかった。そしてついに私に関する事実無根な内容(それは駅前の大型スーパーで私が万引きをし、その店舗へと父が謝罪しにいったのを目撃したという内容)まで書かれ、精神的に病みかけてしまったことがある。
しかしこの書き込みを私が未だに忘れていないのは、憎悪とともにもうひとつ理由があり、それは『そもそも5ちゃんねるに信憑性を確信している者が少ない』ということに気づけたことだった。きっかけは歳が離れた友人に「便所の壁の『今すぐHしたいから下の番号に電話して』という落書きの番号に期待して電話する奴みたいなもんよ。俺はそういう情報を鵜呑みする奴の方がヤバいと思う」と言われ、気が晴れたからである。
と同時に私のネットに対するひとつの哲学が生まれた──臭いものは蓋だ、と。
だからこそ根も葉もない悪質極まりない書き込みには「どうでもいい」という気持ちを保ちながら目を流すことができる。これはエゴサをする上でとても大切な胆力になっていた。
だがSNSの種類も増えつつある昨今においてはそうもいかない──黎明期のインターネットは限られたサービスに目を通していれば、当店の評価がどういった状況なのかは把握できる環境だった。さらにはスマートフォンの普及により、多くユーザーが良い意味でも悪い意味でも情報を拡散する力を持っているからだ。そしてSNS側がView数によってアフィリエイト代を支払うシステムによって、それで生計を立てている者にとってはどんな手でもコンテンツを破綻し続けなければならない点が、状況をややこしくさせている。
上記の港区女子はある意味大将は臭いものには蓋を選択したように私は思ったが、しかしそれは逆効果なようにも感じられた。大将の視点から考えれば、たしかにただでさえ店舗で起きたトラブルをもう一度振り返ることは面倒だし、それ以上に──これは私が料理人であるからこそ分かることだが──粋じゃない。つべこべ言わないのが料理を努める者の生き様でもあり、現場主義を保持することができる。
しかしもうこのような考え方で現代を生きてゆくのは難しいんだろうなと痛感した──なぜなら〝自己発信〟が当然であると誤認している者たちが多いからこそ、サービス提供者側も正確な情報を提示しなければならない時代へと突入したからこそ。
・正確な情報に基準はあるのか?
ではここでひとつの疑問を投下してみよう──正確な情報という基準値についてだ。これが序章で書き起こした『自己発信の質』を紐解く鍵にも繋がる。
先に結論を述べれば、そんなのあるわけが無い。コンプライアンス──いわば、倫理・道徳的観点からは手繰り寄せることができると主張する者もいるかもしれないが、だったらなぜ道徳の教科書には明確な答えが載っていないのだろうか?
それはつまり、この手の基準というのは状況や権力によって簡単に変化してしまうからだ。
だからそもそも基準なんて単語自体がまやかしであることに気づく必要がある。
ということはアウトプット側が意識しなければならないのは、いかに大勢に自分の意見を歪曲されないように伝えられるかが重要になる。それらをこなす上で肝心になってくるのが、私情を挟まないことをまずは念頭に考えなければならない。
いくら頭に血が上ったからといって、感情のままに思いの丈をぶつけたとしても、煽ることを前提に待ち構えている者たちは一切の感情を汲み取る気概などなく、むしろまた面白いネタをくれたことに歓喜するのは目に見えている。
だがしかし、怒りに駆られている状況で冷静を奪還する──これができたらどれだけ楽だろうか!
ドストエフスキーの『白痴』という小説に、こんな文がある。
ここまで見事に人間の怒りという感情を短く説明している文章は珍しい。
この文章をテーマに、まず第一章では店舗で発生したトラブルが利用者によって歪曲に発信、および拡散されてしまった場合と、それに対する自己発信方法について考察しよう。
第一章 店舗で発生したトラブルが利用者によって歪曲に発信・拡散されてしまった場合
1 怒りの抑止
コンプライアンス──いわば道徳・倫理は、社会と強く結託し、どんどんと負的要素を排他している。個人的には社会奉仕への効率性を損なわせないためだと考えているが、だからこそ怒りを開放するということは、社会から一時的に解き放たれる喜びを噛みしめられる貴重な機会へと進化を遂げた気がする。そして私もよく怒りを抱く人間であるからこそ分かるが、この恐るべき快感が冷静を奪還させることを邪魔する。
まずはこれらの怒りをインターネットへとぶつけないという考えを土台にしつつ、炎上に対してどういった対策を練るべきかを考えてみたくおもう。
ここで店舗側は二つの選択肢が用意される。一つ目はネットの炎上にみて見ぬふりをすること、二つ目はどれだけ情報が広がっているかを調査するかである。
ここで前者の選択肢を取る飲食店はとても肝がすわっているか、向上心がないかのどちらかだと思う。そういったネットの評価をあてにしないという胆力は敬服できるが、反面、サービス向上のヒントを得れる機会を失っている部分は否めなくはない。そして大半の飲食店は後者を採用するであろうが、しかしこの行為、怒りに満ちているときほど自身のマイナス意見を目にしたくなる欲求に駆られている場合が多い。私はネット上で生じるの喧嘩の大半はこれが原因だとも思っている。要するに「また書いてやがる」という怒りに満ち溢れるわけだが、実際は怒りの感情を保持できる燃料を見つけたことに歓喜しているだけでもある。
ここで序章に引用したドストエフスキーの文章の後半に着目したい──分かりやすく書き直せば、自身が憤怒してしまったことに後悔できる者は利口であり、自分の許容範囲以上に腹を立てたことを理解していると変換できる。
ここがかなり肝心で、裏を返せば自分の許容範囲を如何に大きくするかという点と、怒ったことを後悔できなければ成長は無いという解釈ができるだろう。
怒りという感情を爆発したあとに後悔をしない者は怒りを些末に使っている。自分が主張したい内容を、それが通ずるかどうかを思考することなく、自身の正義だけで戦うからこそ、誰かと揉めてしまうのだ。社会的価値が明確にされた正義で戦えば、店舗側のクレーム対応は真摯になることを理解していない。悲しいかな正義の価値が社会的にあるのかどうかを考えずに戦いなれてしまっているのか、それとも我が儘な自我が形成されてしまっているのかは分からないが、とにかく自身に相当な自信があるのだろう。
こういった者は自身の怒りの許容範囲を全く理解していないからこそ、感情を直接的に露呈してしまう傾向がある。
そして怒りを爆発したのだが、相手に言い負かされてしまい「喧嘩なんてしなければよかった」などの反省はここでいう真の後悔ではない。それは面倒ごとに巻き込まれたことだけの後悔でしかない。ここでいう後悔というのは怒ってしまったこと自体に反省しなければ成立しない……それはたとえどんな怒りであってでもだ。
ここまで怒りを分析したのは理由がある──それは自己発信時代がゆえ、怒りそのものがコンテンツ化されていることを、そろそろ理解してほしいという気持ちからだ。様々な時事に怒りをみせている者は今一度、怒りとはなにかと自身に問うべきだともおもう。でなければインスタントな怒りを発することに慣れてしまい、歪んだ倫理観が形成されてしまうだろう。
肝要なのはいかに自身の意見を通すかであり、その行為に怒りを用いてしまった場合、十中八九は怒りを発した者が──たとえ正論でも──負けてしまう怖い時代に突入しつつあることを忘れてはいけない。現代は怒るという行為が珍しい時代であると認識されてしまっているがゆえに、なおさら危機管理意識を持つ必要があり、そしてインスタントに怒りを使っていたツケでもあると、勇気を持って自己意識を改革することも大切である。
これらを理解することが、己の自己発信能力の向上にも繋がってゆく。
2 声明発表
怒りに距離をおけれるようになれば、次は誤謬を修正すべく声明を発表する必要があるだろう。
今までは説明責任というのが絶対ではなかったが、前述のとおり、時代は自己発信時代に突入しているがゆえに、どうもそうもいかなくなってきたんだと考えを改める必要がある。だからこそ声明発表を行わないことは、芸能人でいうところの「不祥事を起こして記者会見を開かない人たちがバッシングされている状態」と同じ行為だと認識したほうが良い──だからこそ最初に上記の事件を引用させていただいたのもある。
その際に最も神経を使わなければならないのが事実を伝えるという信念を曲げないことだろう。
とくに店舗側に無礼があった場合、この事実を隠蔽や歪曲した状態で声明発表してしまうと、様々な憶測が燃料となり、いたずらに火を強めてしまう傾向があることを忘れてはならない。
よく人は窮地に立たされたとき、間違ってしまう選択を取ってしまうことがある。たとえば無礼をしてしまったお客様がネット上でその内容を公開し、それと同時に拡散されてしまった場合、店舗側が「実は客のほうが悪いことをしたから、結果的にそういった対応を取らざるを得なかった」などと、事実無根なことを書いてしまうようなことがあったりする。こういった行為の根源には、自身のお店を守りたいという気持ちがあるのは分かるのだが、事実の歪曲は現代社会で嫌われる行為の上位であることを深く胸に刻むべきであり、さらにはそういった事実を認める姿勢こそ、あなたの店舗を守るための最善の行為であるということも解釈しなければならない。だからこそ嫌われないためにはまず、どんな事実であれど赤裸々に告白することが大切だろう。
少し余談になるが、ラーメン屋とは私たちプレイヤーがゆえに見落としがちなところではあるが、飲食店にしてはルールが複雑極まりない点が、客間とのトラブルが生じやすいことを忘れてはならない。これはラーメンというのが老若男女問わずに愛されているからこそ、様々な店舗のローカルルールに嫌気を抱く数字も大きくなるのは致し方がないことだ。それも意識をする必要があるが、プレイヤー側の心情としては全てのお客様にイーブンに接したいという気持ちがゆえなのは皆様にご理解いただきたい。
特に昨今、客間とのトラブルで目にするのが代表待ちについてだ。例をあげるならば、駐車場に車を止めにいっている間に列に並び、その後そっと合流するパターンが多いが、これも結局なところ全てのお客様にイーブンに接するためのルールであることは間違いない。
だが昔の時代は注意を受けたとしても、かつては自己発信時代ではなかった。だからこそ、どちらとも火蓋を切ることがなかったのに、いまではこれらが客間とのネット上でのトラブルの火種になりつつある。
これらのトラブルの数を減らすためには、ある意味、プレイヤー側も自己発信力を用いる必要がある──ラーメン屋はひとりで利用される方が多いし、席数もそこまで多くない。そんななかで、一名だと思っていた人数が急に増えるのは後ろに並んでいた方々の待ち時間が、いたずらに増えることを意味する。いわば過失的に割り込みしていることを、その者たちは自覚しなければならない。
だがこんなことを書いている最中でも、私としてはラーメン屋は誰もが気軽に来てもらえる場所でありたいという気持ちが強い。だからこそ、どんどんと増えていくラーメン屋のローカルルールには、すこしうんざりしているところもあったりする。
お客様と接していると、お客様側が私たちに必要以上に気を遣ってくださっていることが多々あり、その都度、同業者としては申し訳ない想いに駆られることがある。
あくまで店を円滑に、誰しもにもイーブンな接客を行う上でのルールなのは重々分かってはいるのだが、プレイヤーである我々も、あまりにもお客様に様々なルールを設けすぎてしまうと、いつか業界全体が痛い目にあう可能性があることを忘れてはならない。
時代は自己発信が可能であるからこそ。
3 声明文制作の秘訣
次回公開予定。