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たにぐちさんと麻婆豆腐カレーについて

秋の日曜日、僕は「たにぐち」という名のカレー屋にいた。この店名に一種の引力を感じて足を運んだわけだけど、実際にたにぐちさんがいるわけじゃないことは分かっていた。彼女の姿を求めて来たわけじゃなく、単に、なんとなく名前が胸をかすめたというだけだ。でも、店名を見ただけで胸のあたりにふっと風が吹いたような感覚を覚えた。店は静かで、僕の他に客はまばら。いい具合に落ち着いた空気が流れている。

注文したのは「麻婆豆腐カレー」。それもこの店の推しらしい。ちょっと奇妙な組み合わせではあるけれど、好奇心が湧いてきた。僕はこういった不思議な組み合わせには何かしらの意味が宿っているような気がしてならないのだ。料理が運ばれてくるまでの間、窓越しに東横堀川を眺めながらぼんやりと物思いにふける。川面に揺れる波紋が、何か遠い記憶を引っ張り出そうとしているかのように揺れていた。

たにぐちさんのことを考えないようにしても、結局思考は彼女に戻ってしまう。彼女は少しふくよかで小柄、眼鏡をかけたその奥の目が不思議なくらい澄んでいる。僕はその目にどこか純粋さと暖かさを感じるのだ。職場近くの中華料理店で働いている彼女の横顔を眺めていると、心の中に小さな温もりが灯る。どれほど長く見ていたとしても、彼女は気づかないふりをしてくれる。そういうところが僕は気に入っている。

中華料理店で働くたにぐちさん

ふと気づくと、麻婆豆腐カレーが目の前に置かれていた。見た目はどちらかというとカレーに寄りかかっているが、香りはしっかりと麻婆豆腐のそれだ。僕は一口掬い上げ、口に運んだ。その瞬間、意外にも調和の取れたスパイスの重奏が口の中に広がり、なんだか心地よい気分になった。辛さの中にほんのりとした甘みがあり、それが妙に人間らしいというか、温もりを感じさせる味だった。

たにぐちさんも、もしかしたらこのカレーを食べているのかもしれないと、ふと思った。いや、さすがにあの彼女がこんなに奇抜な組み合わせを試すかは分からない。でも、もしもこのカレーのスパイスが彼女の一部であれば、僕はそれをこうして舌で確かめ、味わい、彼女と小さな秘密を分け合っているような気分になれるのだ。

窓の外では、秋の午後の空気が静かに流れていた。葉が少し色づき、ゆっくりと東横堀川に散り落ちては流れていく。僕はその風景を眺めながら、この不思議な麻婆豆腐カレーとともに、今日のひとときを楽しんでいた。

これもまた、小さなひとりの贅沢。
そんなことを思いながら、秋の午後のひとときを僕は味わった。

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