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【退職エントリ:後編】僕の幸福論。

 前職での最終出社を終えて2週間ほど経った。朝8時すぎの「スッキリの続きみたいけど会社いかなきゃ。」という葛藤がなくなったことに少しの寂しさを感じるけど、毎日「今日は何しようか。」と考える朝は新鮮。

 退職エントリ(前編)を想像以上に読んでいただき、昔の仲間たちから思ってた以上に連絡もらって、懐かしさとともに嬉しかったです。前編中で、後編の記事化を約束してしまったので、そろそろ後編書こうかなと思います。遅くなって大変申し訳ありません・・・。

「幸福」概念研究のきっかけ

唐突ですが、僕は小学生の頃から「幸福」という概念についてずっと研究しているのです。研究といっても考えることが趣味みたいなものですが・・・。考えてみたら25年ほどですか、キモいですね(笑)。 

「幸福」は、全世界70億人以上の人間がすべからく追い求め、すべての国でそれに該当する言葉が存在する共通言語であることを知ったときから、僕はその共通の要素を知りたくて仕方ない。そして、僕にはずっと不思議なことがある。それは、誰に聞いても「幸福」の正体を教えてくれないこと。「幸せって何?」って誰に聞いても、「幸せのかたちは人それぞれ。」とかそういった言葉で逃げられる。そう、みんな「幸福」のイメージは理解していても、「幸福」の正体はみんなわかってない。それなのに、結婚式なんかで「末永くお幸せに。」って言う。それを聞くたびに「幸せって人それぞれなんじゃないのか・・・」と思ったりもする。

当然のことながら僕自身も「幸福」になりたい。だから、その根源を知りたいと思っている。「幸福」を考えることは、就活の「安定」を目指すことと似ている。多くの学生は「安定」の定義をしないまま、「安定」を追い求める。その状態だと、いつまでもたっても欲しいものは得られない。まずは、手に入れたいものを言語化し定義しないと始まらない。

もしかしたら、古くはニーチェ先生やアドラー先生なんかが明らかに言語化にされているかもしれない。でも、そういった誰かの本で語られた受け売りの「幸福」ではなく、自分自身の経験を通じて「幸福」を言語化したいというのが、かねてからの思いなのです。お気づきの方もいると思います、そうです、変態です。

「幸福」の定義

では、ここからはこれまでのその研究の成果(大袈裟ですが。)についてお伝えしていこうかと思います。

まずはじめに、「幸福」の言葉をgoo国語辞書で引いてみる。

「満ち足りていること。不平や不満がなく、たのしいこと。また、そのさま。しあわせ」

なるほど。主観的に満ち足りてる状態ということなんですね。それはなんとなくわかる。知りたいのはそいういうことでなくて・・・その多くの人が「満ち足りる」に至る普遍性を見出したい。つまり、「お金があれば幸せ」「結婚したら幸せ」とか個別場面的な幸せではなく、その根底を支える共通因子を知りたい。

「幸福」の要素分解

ここから、僕の考える「幸福」について書いていく。早速だが、以下が僕の思う「幸福」の要素分解の結論。

      「幸福度」=「内発的動機」×「自己決定度」

【言葉の定義】

「内発的動機」内面に沸き起こった興味・関心や意欲

「自己決定度」自分自身の意志で決めたかどうかの度合い

研究の結果、上記が「幸福」の要素分解であろうで結論づけた。つまり、「幸福」は、人生において自らの内面に沸き起こった興味や関心に基づいて、かつ自分の”意志”で決めているかどうかの度合いで、幸福量が決まるということである。なお、「幸福度」と「自己決定度」の相関についての最近の経済産業省の論文でも発表されてもいるので、わりと真理に近いものだと思っています。

価値観を変えた出来事(暗黒の高校時代)

では、なぜ上記結論に至ったかを自分の過去の経験交えて話していく。

まず、「内発的動機」についての考察。これは多くの人が経験的に感じているんじゃないかと思う。要は、好きなことをしているときが一番幸せだよね、っていう話。実は、僕も小学生のときは、お笑い芸人もしくは料理人になりたかった。いろいろあって、結局大学卒業後は会社員になったわけだが、「好きを仕事にする」ことができれば、それは幸せ。これはけっこう共感いただけるのではないだろうか。

そういった内から沸き起こる興味・関心に加えて、もう1つ重要な観点としては、「自己決定度」。つまり、自分の意志で決断した人生なのか、ということ。僕にはそのように考えるに至った出来事がある。

高校入学時、僕は高校生活が嫌でたまらなかった。男子校だったし(入学するまで気にしてなかったけど・・・)、自転車で50分かけて山を2つ越えて通学してたし、授業も7限まである進学校だった。なぜ、その学校を選んだかというと、母親に勧められたから。たまたま、通っていた学習塾主催で行われた私立高校説明会に母親と一緒に参加し、母親からの勧めにより入学を決めた。

当時の思いとしては、いい大学に入るために進学校に行けば母親も鼻が高いだろうと思って、その高校の入学を選んだ。このように、高校まで、僕はけっこうの場面で母親に提示された選択肢を選んで生きてきた。小学校のときも母親の知り合いがやってるというだけで野球クラブに入ったり、行きたくもない塾や書道教室など母親から提示された選択肢に「YES・NO」で答えることでシナリオが進んでいく人生だったような気がする。といっても、別に母親のしつけがとにかく厳しいとかマザコンだったというわけではなく、誰から提示された「YES・NO」の二者択一に答えて生きる人生が楽だったからなんだと思う。

でも、ある日、僕の事件は価値観を覆す事件は起こった。高校に入って数か月が経ったころのある平日の夕食時、僕は高校生活に対する不満から「学校が楽しくない・・・」とポロッとを愚痴った。そのとき言われた一言がぼ僕にとっては衝撃的だった。

 「そんなん知らんやん。あんたが選んだんやんか。」

たしかにそう言った。僕は、腹立たしさとともに声が出なかった。でも、よく考えたらたしかにそうだ、自分が決めたんだ。今まで「母親のため」だと思ってしていた意思決定がすべて、母親からしたら「僕(あんた)」が自らした意思決定だったのだ。そのとき、母親はずっと、

「自分の人生の決定くらい自分の責任でせえよ。」

そう言ってたんだということに気が付いた。

その日から、僕はすべての意思決定を自分の責任で決めることにした。だから、その翌日、”自分の意思”で目標を設定した。自分の能力値の限界であろう関西の大学に行くことに目標に定めた。

そうすると、不思議なことに今までつまらなかった高校生活が急に楽しくなった。毎日4時間の勉強を約2年半継続しても苦ではなかった。結果的に、目標の大学に合格できた。このとき理解した、自分の意志で決めてそれを達成していく過程、それは「幸福」なのだと。

僕が新たな船出を決めた理由

では、なぜ前職の会社を辞めて、新たな船出の意思決定をしたのか?それはシンプルで、「内発的動機」に素直に生きたいと思ったから。わかりやすく言うと、「心のままに生きる」ってこと。

だが、自分含め多くの人が「内発的動機」に素直に生きれない。それは経済的な問題が絡むから。要するに、心からやりたいこととお金との両立が難しいからである。僕も例外でなく、小学校のときになりたかったお笑い芸人や料理人は、生活の糧を得ることが難しいと判断し、金銭的な理由から職業として諦めるに至った。

今は、お笑い芸人になりたいとかはなくなってしまったけど、内発的動機は刻々と変化するもの。大事なのは、その変わり続ける好奇心や興味が何であろうと、その欲求に素直になれる状態でいること。その状態を「精神的自立」と呼ぶことにする。

精神的自立の獲得

僕は上記の「精神的自立」状態を得るために、今回の独立という意思決定をしたわけだが、それを得るためには段階というものがあると思っている。それを得るためにはまず、人間の2大資本からの自立が必要だというのが僕の持論。それはつまり、「経済的自立」と「時間的自立」の獲得。

多くの人はこのどちらかを他者に依存している。つまり、お金をとるか、時間をとるかという二者択一を迫られている。「経済的自立」を求めると、「時間的依存」状態になる。例えば、会社員など。一方、「時間的自立」を求めると「金銭的依存」状態になる。子どもやニートとかはこれにあたる。

僕も大学卒業からの8年間、「時間的自立」を捨てて「経済的自立」を得ることのできる、会社員という立場を選んだ。とはいえ、前職では多くのことを学ばせてもらった。そのなかで、毎年500人ほどの経営者や人事担当者の方など求人に困っているの人たちにお会いさせてもらって、どうしたらそういった人たちを助けてあげられるかを考え続けてきた。

でも、前編でも書いたように、自分自身で価値を生むことはできなかった。その理由のひとつに、会社に時間を買ってもらっているという構図であったから。つまり、会社に所属している以上、その会社の商品を売るという使命があった。それが嫌だったとかいう話ではなく、あくまでも構造的に、そこには精神的な自由がなかった、それが問題。

要するに、「経済的自立」と「時間的自立」を両方獲得するためには、上述のとおり、自分自身でお金(価値)を生む必要があるということ。逆にいうと、それができれば、「精神的自立」を得ることができる。

 「何言ってんだ、こいつ。」という方のために、以下に図解します。

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今後の未来

だから、僕は、経済的には"いわゆる"安定した会社員という立場を捨ててでも、価値を生むことのできるようになるために自分の少々の”時間”を投資したいと考えている。

ここから一定期間は、「経験したかったけど、経験できてこなかったこと」を経験してそこで感じる自分の感情と向き合い、各地に眠る価値とニーズの発掘期間に充てたいと思っている。実は今、高知で漁師をやっている友人の家でこの記事を書いています。すでに居候生活して数日になるが、多くの学びをいただいている。

いつになるかわからないが、こういった場所で得た知見を「価値」に変え、社会に還元できるように訓練していきたいと思っている。今後も農業・漁業・外国生活・異文化・飲食・自然での暮らしなどいまの興味は尽きないが、できるかぎり経験してみたいと思っている、幸福に生きるために。以下に最終的な概念図をまとめてみた。

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最後に

長くなりましたが、以上が僕の考える幸福というもの。僕自身も未来のことはわからないけど、「内面の興味・関心にもとづいて、自分で決める」という自分の信じる軸はぶらさず、後悔なく胸張って生きれるように努めていきます。

改めてになりますが、これまでお世話になった皆様ありがとうございました。また、今後とも関わることがあれば、不束物ですが、引き続きどうぞよろしくお願いいたします。


【出典】https://www.rieti.go.jp/jp/publications/dp/18j026.pdf(幸福感と自己決定―日本における実証研究)

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