アイデンティティー・ポリティクス映画をどう見るか
『ジガルタンダ・ダブルX』という映画が日本で話題だと聞いて早速英語字幕・テルグ語版をNetflixで視聴した。
任侠映画にインド社会にある差別の問題を織り込みつつ、映画というアートの素晴らしさを讃える…娯楽映画としてとても出来がよく、それでいて社会性もあり、最近日本で注目度が上がっているインドという国の魅力も相まって、とても好かれる作品なのだと思う。
心を揺さぶられたところもあり、いい映画だと思ったが、同時に本作もまた、タミル映画独特のアイデンティティー・ポリティクス映画だということは直ぐに思い至った。
『ジガルタンダ・ダブルX』のアイデンティティー・ポリティクス的構造
アイデンティティー・ポリティクスとは、Wikipediaではこう説明されている:
「ジガルタンダ・ダブルX」には、
①資本主義や法の支配から隔絶された部族民の人権や居住は、中央政府の支配者によって脅かされ続けて来た。
②警察官になろうとしていた軟弱な(権威にすり寄ろうとしていた)男が部族民の男と親交を深めることで革命家として目覚めていく。
③部族民出身の男は、己のアイデンティティを取り戻し、集団のリーダーとして成長していく。
④二人のそれぞれ背景の異なる革命家が連帯し、共通の敵を倒すべく戦いを始める。
という構造がある。
実は本作で私にとって最も心を揺さぶられた部分はその部分ではない。
ある過去の悲劇から己のアイデンティティを捨て、インフォーマルセクターの暴力装置=ギャング化してしまったシーザーが、キルバイと出会い、偶然贖罪の機会を得て、彼が心から願っていたが口に出せなかった「許し」を得るところである。
運命の不確かさ、そして長年の心に刺さった棘が取れる瞬間…韓国で言うなら「恨(ハン)」が解ける瞬間は、多分今自分の状況に照らしてはっとさせられたものと思う。
また、「映画」が彼に残されたたった一つの希望だったのだという設定も泣かせる。
ところで、私の感動した点は作品の構造から考えると、③でシーザーが己のアイデンティティを取り戻すために必要な過程の一つに過ぎない。
映画は、部族民のアイデンティティーを貧困と差別的な状況、悲惨な暴力の被害の描写に置き、部族民に対する暴力や収奪の原因を為政者の強欲だと結論づける。
観客は、このような政治的メッセージにもろ手を挙げて賛成することが期待されている。この性格と「プロパガンダ」を区別することは容易ではない。
違いや事実を取捨して連帯を虚構する
ところで、ウィキペディアの解説には、以下のようなくだりがある。
「連帯」という語に注目したい。
利害が特段一致もしない集団同士が連帯して、より上の、或は共通の権力に立ち向かう…物語としては美しいし、戦略的に現実においてそのような戦いが、今日の私(例えば同性愛者としての部分)の自由や快適さに繋がっていることは否定できない。
「ジダルタンダ」のような映画を観ると「何も知らなかった自分」の羞恥に駆られる。その羞恥を「権力者め、けしからん」という義憤に置き換えないと気が済まなくなるのは私だけではなかろう。
さて、インド社会の状況に義憤を感じたとして、ほとんどの日本人はインドにはいない。また、インドに住んでいたとしても、このような問題に直接関与できる人は殆どいない。ではどうするか。
そこで、真面目な観客の頭脳は、自分と映画の中の主人公の間に連帯を虚構するのである。
他の「差別」の問題に苦しむ様々な集団に思いをはせ(何なら自分の所属集団についてもう一度想起するのが一番よい)、「同じ戦いだ」とグループ化する。
そして、自分が、その集団に属していようがいまいが、「支持する」という姿勢を取る。今やSNSでは、ハッシュタグ運動等でそのような意思表示を頻繁に目にすることができる。
ちなみに、連帯を示すのは悪いことではない。どちらかと言えば、人としていいことなんじゃないかと今でも思っている。
でも、ひねくれ者の自称映画ライターである私はその先のことを考えたい。
例えば、現代日本の被差別集団と、現代インドの被差別集団は、各々の歴史や文化に影響され、さまざまな要素からできあがっている。同じでは決してない。
ここまで違う社会の現象を「同じ戦い」と還元するとき、我々がやりがちなことは、「違い」や「不都合な事実」を取捨して「同じだ」と還元することである。
しかし、このポリコレ時代には、当事者の「なかったことにするなよ」という無数の声に耳を傾けよと言われて来た。集団の個々の違いを無視したり…或いは自分から見て明らかに都合の悪いことに目をつぶり、「同じ戦いだ、連帯だ」と意思表明すること、それは、まさに今ポリコレ時代において批判されてきたはずの、自分のための消費ではあるまいか。
しかし、我々はそれをやりがちである。その方が分かりやすいからだ。私もその反省があるので今こうして書いているのだろう。
一旦「違い」や「連帯にとって不都合なこと」を取捨したら、次は「共通の敵」を探し出さねばならない。戦乱に陥っている国の中にそれを見出すことは簡単だ。
しかし、敵は実在していなくてもよいし、実態が無くても憶測でも構わない。
我々は、SNSで実に頻繁に、きちんと根拠も示さずに「差別主義者」だの「ヘイター」だのと人を批判し、ある言葉を切り取って「差別発言だ」と非難するというやり方で、敵や悪を虚構し、「我々=善」の立場を自分の中に作り出す様を目にしている。
見えている関係が全てではない
本当は誰が場の権力を握り、状況を動かしているかと考えた場合、上の者が決め、下の者は絶対服従するのか、と言えば、ことはそう簡単ではない。それこそ、池亀彩『インド残酷物語』が苦悩しながら言いたかったことではなかろうか:見えている関係が全てではない。
アメリカ映画は、2018年『ゲットアウト』に象徴される、人種やジェンダーに基づくアイデンティティー・ポリティクス映画をいくつも生み出した。
作品としてとても面白く質がいいが、そこに滲んでいる「あいつらと我ら」という分断を観客も一緒に支持することが期待されているという点が、私はどうも引っかかるのだ。
その仕掛け人の一人ジョーダン・ピールでさえ、『アス』や『Nope』ではっきり方向転換をして見せたし、ソーシャル・スリラー映画の仕掛け役ブラムハウス・プロダクションの最近の作品からは分断的なメッセージが後退している(例えば『エクソシスト:信じる者』)。
「ジガルタンダ」はじめ、インドの映画が事実を描いていない、とは思わない。実際インドに住んでいれば、映画の最後の方で起こる事件にしても、警察の様子も実にその通りであろうし、大スターと政治の癒着関係も、さもありなん、という気がする。
ガイジンから見れば、アイデンティティー・ポリティクス映画は、まだまだインドに必要だという気もする。
過去のインド、現代のインド
ただ、それと同時に、その種のインド映画が悉く「過去」を描いているということも理解する必要がある。どんどん便利に、快適に、公平に変化を続けている「今」をアイデンティティー・ポリティクス的に分析することが難しいということかもしれない。
正義のために為したことが、ブーメランとなって自分に返って来て、身の程を知らされる…同じタミル映画でも、シャンカル監督は『Indian 2』において、現代のツールであるSNSが、正義を求める人々の弱く身勝手な姿を炙り出すと表現した。
副題が傑作だ。「Zero tolerance」=絶対許さない。インドにおいてそれの実現を阻んでいるのは本当は何なのか?と考えると更に味わい深いのだ。
続編は製作が決まっているので、シャンカルが、発展し続けるインド社会のどこに落としどころを見出すか、注目される。
私は、アイデンティティー・ポリティクスの一つであるLGBT∞運動の劣化を…「お前は問題をわかっていない」という義憤を前にしたときの羞恥が如何に人を思想教化し動員し、異を唱える者を根拠なく「差別主義者だ」と指弾させてしまうのか…をまざまざと目にしてきただけでなく、自らもそういうものに加担していたのではないかと自省してもいるので、どうも気になるのだ。
タミルのこういう映画の在り方を完全に覆すようなベンガル映画は日本に入って来ないようだ。今こんなにインドのことが話題になり、映画も沢山知られ、愛されるようになった今、タミル映画とは違った意味で後味悪い映画体験も充分に楽しめるようになっているのではあるまいか。
インド映画の驚くほど多様なあり方が、もっと知られるとよいと思っている。