竹美映画評79 「社会」は皆の心の中に 『2018』(2023年、インド、マラヤーラム語)

先週の金曜日には『The Kerala Story』を観てぐったりしてしまった。

ところが鑑賞後、ツイッターで#realkeralastoryというハッシュタグで『2018』という映画が盛り上がっていると知った(そのもとになったツイートを探してみたんだけど見つからない。以下は関連するツイート)。

予告編はこちら。

さて、南インドはマラヤーラム語の地域、ケララ州ではどんなことがあったのだろう。「本当のケララの物語」とは何だろう。

参考:映画の元になった事件は、2918年8月にケララ州で発生した集中豪雨。

お話:

2018年のケララ州。ドバイに出稼ぎに行こうとしている元軍人の若者、モデルを目指す漁師の息子、テレビのレポーター女性、外国人客を乗せたタクシードライバー、単身赴任の夫とうまくいっていない妻、タミルナドゥのトラック運転手、州政府の役人、障害を持つ息子を世話する父母、盲目の商店主。小さな幸せを生きる人々の上に大雨が迫っていた。各地で困難に見舞われた人々が見せる助け合いの精神を描く。

心が泣いたわ…

韓国の社会派災害パニック映画好きな人なら全員好きになると思う。出演する人の数が多くて前半は英語字幕を追うのも大変だった。女性視点が弱い感じはしたものの、災害において前線で動くのは男性ということになるからなのだろうということで私の中で正当化できたので、それ以外の美点が圧倒的なために気にならないと思う。

率直に申し上げると、元軍人の若者アヌープを中心に物語が展開するのだが、この青年(Tovino Thomas)がかつてのマイケル・ビーンを思わせる爽やか男なのであああああんと画面に吸い込まれてしまったってのは大いにあるな!!!ごめんよ!!!!!!

軍人さんというのはインドでは尊敬されている存在であるからこそ、そこから逃げるように辞めて地元に戻って来た彼は居心地が悪い。早くドバイに行きたい(ドバイにいるインド人にケララ人が多いらしい)と思っていたところへ、美人の女教師が赴任してきたのでああああんってなって結婚寸前で大雨大洪水。その後、気のいいアヌーブの元軍人の設定が活きるシーン…映画的だなーと思ったしベタだけど、心で泣いた(涙なんかなかなか出て来ないのよ!!!)。

他にも、これもインド家族主義の観点から捉えていることだとは思うけど、家族を案じたり、何とか困難の中で家族を守ろうと助け合って生きる様子を見て、自分の娘に対する冷たい態度を反省するトラック運転手のエピソードも泣かせる。そう!インド人は映画の中で簡単に反省しちゃうの!!!でも実際そうなんじゃないかな。インド人って素直なのよね。普段は他人に構わず好き勝手してるから、じゃあ聞きましょう、となると変な祟りとかが起きないみたい。言ってみたら意外と分かってくれることってのもあるんだなって体験が最近ありまして。粘着質でなかなか人を許さない日本人としてはびっくりしちゃう

村が危ないということで、漁師たちが自分たちのボートを使って救助に協力しようと立ち上がるところも泣いた(心でよ!!)。それも、キリスト教の教会に集まって神父さんから呼びかけてもらうというあり方が、またケララ独特の風景でもあるし、ケララの宝なのだと思う。

本当のケララの物語

この映画観たらケララに対する印象がものすごくアップすることでしょうね。私はケララに移民したいと思ったもんね(それを思想教化というのよ!!お見事ね!!!)。文字がまるまるしてて可愛いマラヤーラム語を勉強したくなったもんね!!インドホラーを研究するためにもマラヤーラム映画は外せないっぽいしなー。

「社会がそこにある」と思えた。ケララは共産党が政権を取った時期があり、それでいてインドの議会制民主主義は機能していた上に、経済や教育等の面で比較的成功している。その意味でも左翼勢力が政権を取るに至った2000年代韓国の空気と似ているのかもしれないね。韓国映画のノリをどこか感じさせる映画だったし。人間開発指数が高いとされ、人間の善を信じたいという左翼的良心を満たしてくれる場所でもある。

本作で描かれるのは、危機に陥ったケララの人々が自分たちの力で困難に立ち向かい、助け合ったという記憶である。それがケララの本当の物語だと表象することには色んな意味も憑いてくるわけだが…。

「インドには色々と足りないものがある」という意識が、「自分たちが動かなきゃいけない」という気持ちを呼び起こすのかもしれないが、アタマが切り替わったインド人というのは誠に清々しい…私はまだ目の当たりにしたことはないが、コロナ禍においてそういうものを見たという話は聞いている。

社会、そして公共空間というのは、皆が何かしらを出し合って、我慢したり妥協したりすることで形成されるものでもある。我慢の度合いや内容が人によって、または集団によって不均衡であるが故に、また時代が変わると見え方も変わってしまうが故に、構成員に強要される不均衡な我慢を「抑圧」と捉え、我々は打倒の対象にしてきた。そして、紛争や交渉や犠牲を経て、公共空間を曲りなりにも「少しはましかな」と思えるものにしてきた…という物語に、私はまだ期待を持っている。「すべては最高じゃないが、まあまあ(not bad)をみんなで目指そう」と、2020年代のぎすぎすした空気とは異質のメッセージを投げかけていた『レゴムービー2』は実に現実的だったが、同時に一番難しいことを提案してもいた。

『The Kerala Story』は「全てを最高にしたいがあまりすべてを壊そうとするテロリスト」をモンスターとし、それに脅かされるヒンドゥー社会を無力なノーマリティとして描いた実質ホラー映画だった故に、インド社会は深く分断されたものとして立ち現れている

今回の映画はそれに対し、「すべては最高じゃないし、善人ばかりじゃないけど、困ったときは助け合いましょうよ」という人類のいい部分に注目している。むろん、大災害のような機会が無ければ人間は一緒に協力し合えないというのも哀しいことなのだが、『The Kerala Story』にしても、モンスターを前にしなければインド社会はまとまれないという現状も示唆している。

この「本当のケララの物語」のラストシーンは、海を進んでいく漁船を後ろから捉えていた。希望に満ちたエンディングに胸がいっぱいになった。そこに未来があると信じている。こういう映画は一時期から斜に構えて観ていたところがあるが、もう、斜に構えて考えることに疲れてしまったよ。

日本人は普段から「我慢」を出し合い、無賃労働や、無限の感情労働を文化的によしとした結果、高度に組織化された社会を作り出した一方、我慢負担の不均衡から来るコンフリクトで皆がぎすぎすし、時にはストレスで社会から落ちこぼれたり、社会を脅かすモンスターを生むという副産物を作り出した。その副産物に対して不満の声があがる。そのときに日本社会がその声に耳を傾けて、いかなる立場のどんな不満でもまずは聞いて、皆で悩み、少しでも我慢負担の不均衡を減らすことができれば、すばらしい社会を作り出すことができるだろう。今あるものを壊さずともできるだけ多くの人が幸せにやっていく方法があるんじゃなかろうか。日本には社会があるし、未来もある。ではどうやって耳を傾けたらいいのだろうか。

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