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プロパガンダ映画とホラー映画の曖昧な境界
インドの状況を色々と考えていくうちに、私の中でも考え方がぐるぐると変わっていくのを感じる。ケララ州で、若い女性たちが洗脳されてムスリムに改宗させられ中東のISISに送り込まれて性奴隷にされている…センセーショナルな事件をホラー映画の構図を使って描いたスリラー映画『The Kerala Story』は順調に売り上げを伸ばしている。
上記記事の以下の切り取りスクショが正しいならば、ヒンディー語吹き替えされた南インド映画と比較すると、昨年の『RRR』(のヒンディー語版?ともかく統計の定義があいまいに思われ、何も信用できないということは言っておく)に迫る勢いである。
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インドの色々な反応
同作は、一部の(さもありなんという感じだが)州では、州知事が興行を支援する有様である。
私がリリースの日に観に行った際に、異様に若い男性の観客が多く、平日の午後だったのに席が埋まっていたというのを目撃しているので、何らかの動員がかかっている可能性は高いと思う。
他方、同作はプロパガンダ映画であると批判されたり、西ベンガル州では州知事が上映を禁止、他の州でも上映禁止が検討まではされた模様。ただし、西ベンガルは同作と全く異なる視点に立った作品(であるが故にインドマジョリティから無視された)『Laal Singh Chaddha』も、劇場が危なくなるからという理由で上映を禁止した模様。
つまり、モモタ知事は、特にムスリムに肩入れしたから『The Kerala Story』を上映禁止にしたというのではない。アンチボリウッドのアグニホトリはモモタ知事の言葉の中に自分の作品『The Kashmir Files』への誤った言及があったとしてツイッターで歓喜!!彼女が彼の映画作品に一切言及しなかったら、さぞやがっかりしたことだろう。謝罪を要求した!
アグニホトリ監督は、いうなれば日本の百田尚樹に似ているので、燃えれば燃える程いいのである。一方で同性愛者に対しては擁護的な態度を取っていて油断ならない人である。
ちなみに、俳優のナワズディーン・シディキは、内容の如何は判断されるべきだが、上映禁止は間違っている、という立場のようだ。
私も同じで、文化コンテンツは禁止されるべきではないと思う。ちなみに主演のアダ・シャルマは個人情報をハッキングされる被害に遭っている。
この映画を徹底的に批判したいのならば…攻撃を彼女達女優に向けるのは戦略的に誤っている(表現の自由に対する攻撃になっている点と、そもそも他人の個人情報漏らしたらダメなのは当たり前)。それは、この作品のプロパガンダ的意図を支持して広めたい人たちにとって最も喜ばしいことだからである。上記アグニホトリ監督がモモタ知事の発言に大喜びしたように。
それが今の時代だ。日本でも、我那覇真子さんがその戦術を極めて巧妙に駆使していてお見事だ。誤報でしたと認めることもプラスになる程に、彼女はトピック選びの時点で支持者の心を掴んでおり、戦術として何枚も上手だ。彼女の発信を「ヘイトだ」と批判したところで痛くもかゆくもないばかりか敵に塩を送る形になっている。
プロパガンダ映画としてどうなのか。
同作、内容は以下でもう一度おさらいしていただくとして、ホラー映画研究者としては、本作を通じて「ホラー映画とは何か」を考えさせられた。その前に、本作はプロパガンダ映画としてどうなのかを考えてみたい。
プロパガンダとはどういう意味か。
上記サイトでは「プロパガンダ(propaganda)とは、特定の思想によって個人や集団に影響を与え、その行動を意図した方向へ仕向けようとする宣伝活動の総称」とされている。その意味で、『The Kerala Story』はその要件を網羅したまさにプロパガンダ映画らしい作品だとは言えないか。
確かにそう評価できるのだが、本作がプロパガンダ映画だというなら、興行成績が良かっただけではダメで、「人々にある特定の影響を与えたか」によって測定されるべきである。少なくとも私の知る限りで、になるが…確かにこの作品は人々の話題になっている。しかしながら、この映画を観たからといって近所のムスリムに意地悪いことをした事件というのが頻発するのかと思ったら、全くそういうことは起きていない。
どうも上記の記事に出ている事件は、映画のことが引き金になっているとはいえ、このプロパガンダ的な性格や、もう少し浅いレベルの訴え(事実を認識しようということ)のどちらとも関係ない、何かもっと深いレベルの不和や不満が背景にあるのではないかという気がする。それが何なのか、外国人には非常―に察知しにくい。そもそも何が起きているのかいつも分からない。インド人自身も気がつくのはだいぶ後なのではないか…村で暴動がおこる系のインド映画を見るといつもそう思うのだが。
また、こういう話は聞いた。彼氏の知り合い(女性)が、わざわざ寄って来て、この映画の話をした上で、ムスリム怖いーみたいなことを言われたという。しかし…周りの反応は、そういうことわざわざ言う人って単純に性格悪いしうざいよね…という脈絡もあるようだった。私も前にLaal Singh Chaddhaの件で少し触れた、インド中間層のヒンドゥーマジョリティとはこれか、と思わされた人の様子から察してみるに…そういうことをわざわざ言うタイプの人というのがいて、そういう層にしか影響が見えないのではないかということである。あの映画自体、恐ろしい映画だったし、観終わった後にはいつも威勢のよさそうなマハーラーシュトラ男がみんな落ち込んでいたのが印象的だった。
さて、『Kerala Story』のホラー映画的な構図をもう一度おさらいしてみよう。
ノーマリティを象徴する存在:ヒンドゥーやクリスチャンの若くきれいな中産階級の女たち
モンスターを象徴する存在:インドの外から侵入してくるテロリストの仲介をするインドのムスリム
ヒーロー:不在
物語:モンスターがノーマリティを脅かし、ノーマリティの世界に穴を開け、若い女性たちを騙して洗脳したあげくレイプして誘拐してISISの性奴隷にしている。
ロビン・ウッドのいう英米の古典的ホラー映画の構図を踏襲すると、本作はぴったりと当てはまる。ホラー映画というのはプロパガンダ映画と同じプラットフォームを持つことがある!ということがここで分かって面白い。
私の最近の理解では、ホラー映画が製作される社会というのはそもそもが亀裂だらけ、分断だらけの状態で、その亀裂から何が噴出してくるかを皆が恐れている。本作において示唆されるのは、インドの外からやってきたもののせいで、インドの中に既にある(そしてみんなが知っている)亀裂から何が出て来るか分かったものではないと言っている。
現在の先進国、特に英米においては、本作のような映画の製作自体が激しい非難を呼び起こすだろう。移民やセクシャルマイノリティのような少数者の一部の犯罪者を表象した作品を観て、その少数者全体を犯罪者として理解する観客はあまりにレベルが低いが、そこがプロパガンダ映画の本領発揮するところである。
インドにおいては、圧倒的にマジョリティが強い上、そのことを日々政府が奨励すらしている状況である。であるが故に、『The Kerala Story』のような作品は、集合的な意味でのインド人の頭の中にある若干不公平な構図をただたんにそのままホラー映画的に表現しただけだと見える。故に…ここの人の心には集合的な潜在的恐怖は掻き立てていないのではないだろうか…なんせあれがヒンドゥーマジョリティにとってのノーマリティなのだということを異教徒も充分分かっている(これだけ宗教映画が元気なインドにおいて分かっていないとは到底思えない)。つまり、個々の観客が映画の中の暴力や展開に驚き怯え、ぐったりとなったとしても、特にヒンドゥーマジョリティとしての集合的な意識の脳裏に何か新しいものを付け加える映画として機能していないように思う。つまり、プロパガンダとしては失敗しているのではないだろうか。
むしろ海外で盛り上がるか
恐らく、本作がプロパガンダ的に作用するとすれば、インド国外においてであろう。反発を炙り出すことにおいて成功しているようである。
上記記事には「the film was propaganda pushed by India’s ruling Bharatiya Janata Party and Rashtriya Swayamsevak Sangh (RSS), an apparent right-wing Hindu nationalist organization」と書いてあり、インドの脈絡においてこの上ないほど真実に近いと思うが、Andy Ngo氏の発信により、また別の意味合いに生まれ変わることになる。
A radical Muslim protest in Birmingham, UK attempted to shut down the screening of an Indian film branded "Islamophobic." The protest organizer had previously successfully forced another film to be pulled from cinemas over similar allegations. #Blasphemy https://t.co/31sWgTpbUL
— Andy Ngô 🏳️🌈 (@MrAndyNgo) May 22, 2023
彼にとって意味があるのは、ヒンドゥーとかムスリムとかインドにおける宗教の問題ではなく、表現の自由が今の世界でどのように危ぶまれているかというポイントだ。それを「プロパガンダ」というのはフェアじゃないのかもしれないが、回りまわって、インドでは、ヒンドゥーマジョリティの気持ちをチャージする意見になる。つまり、ある極めて真っ当な主張が、ある脈絡から別の脈絡に移ったときに、そのプロパガンダ的性格に変貌することがあり得るのである。
インドの「Not bad」がこれだとしたら…
インドにおいて、今のところ、社会が殺伐とするほどの影響を与えていない本作。最近たまたま、加藤恒彦による『聖なるゲーム』に関する論文『『聖なるゲーム』と宗教的コミュナリズム』を読んだ。同作が表現した80年代~2000年頃までのインドの状況を勘案してみると、今のインドの状況は、ヒンドゥーマジョリティの気分をよくさせておくことで、社会全体の不安定化を避け、ミクロ空間の偶発的衝突にものごとを収めているとも言える。
ぞっとする考え方であるが、一方で宗教右派的な人々が政治の中枢におり、こういう映画が作られる一方で、宗教に起因した大きな暴動がしばらく発生していない(あるとしたら経済的な要因)ことは何を意味するのだろう。むろん予断を許さないが、このマクロの妙な安定感は、モディ政権の一つの到達点だとも見える。世界大国に躍り出るという夢、経済の成長(むろん全て喜べるわけではない)、国際政治におけるかじ取りの中で、今のインドの状況を完全なる失敗だと言える人がいるだろうか。特に80年代~2000年頃(『Laal Singh Chaddha』が描いたインディラ・ガンディー暗殺後の暴動や、モディの暗い過去であるグジャラート暴動など)の状況と比較してどうだろうか。
あと20年くらいしなければ、この時代の評価は分からないと思うので、瞬間最大風速の計測結果として、このように理解するにとどめる。しかし、本作のようなプロパガンダ映画が再びプロパガンダとして機能し始める状況は、インドにとって(訂正)もっと大きな破壊や悲惨を意味するのではないだろうか…。今のインドに亀裂が無いとは到底思えず、そこら中亀裂と軋轢だらけであるが、ことマクロレベルでのこの安定がどこから来ているのか…考えずにはおられない。
ボリウッド映画(だけではないが)が威勢のいい愛国心を掻き立てる映画を盛んに作っている状況では、アグニホトリ監督が言う意味では、ボリウッドがインドの価値観を無視しているとは到底思えない。彼は、外国人の私から見れば、彼の大嫌いな「ボリウッド」とそう大差ない位置に立っているようにしか見えないのである。
ではホラー映画とは何なのか。
私は『The Kerala Story』はホラー映画的な構図を使っている作品だと思う。ただし、最後にモンスターがヒーローやヒロインによって退治されることなく、引き続きノーマリティは危険な状態にあると警告を発している点において、社会派映画になっている。ホラー映画と社会派映画というのは、どちらも現実にある対立、不安、憎しみ等の亀裂をどう表現するかの違いしかないのである。女性がレイプされたり、手を切り落とされたりするシーンを観てもそれを「不謹慎だ、怖い」と思えるのがホラー、「何てひどい!」と義憤に駆り立てられるのが社会派なのであるが、実際は同じものを見せている。私たちの頭の中で、映画のわずかな匙加減によって、映画がホラーになったり(本作、『クライモリ』『ホステル』等の恐怖と何が質的に違うというのだろう)、社会派になったりするのだ。
ソーシャルスリラーと呼ばれたブラムハウス社の一連のホラー映画がなぜ「ソーシャル=社会」という言葉を付けられ得たか。「あいつら(モンスター)は現実にはまだ死んではいないし、我々の平和な日常(新しいノーマリティ)を脅かしている、注意しろ」という「プロパガンダ」を観客と共有しているためである。その意味において、ブラムハウスのホラーは、ホラー映画が本質的に包含している「社会派プロパガンダ」としての性格を全面に見せているに過ぎないのかもしれない。
インドにおいては恐ろしい数の映画が次々に公開されている。例え皆が観た映画の内容がプロパガンダ的だったとしても、それがどう皆の心に残ったのか、と想像してみることは、私達が日本の文化コンテンツをどう消費しているかと考えさせてもくれる。