竹美書評 傷つくべきは誰なのか Abigail Shrier著『Irreversible Damage: The Transgender Craze Seducing Our Daughters』
皆の死者の書
上記の投稿から三か月が過ぎた。やっと英語版で『あの子もトランスジェンダーになった…』を読むことができた。
私なりにここ数年アメリカの映画やドラマや事件をウォッチしてきて思っていたことが本書の中で語られていた気がして面白く感じた。
また、松浦大悟が3年も前に『LGBTの不都合な真実 活動家の言葉を100%妄信するマスコミ報道は公共的か』の中で既に述べたことを一次資料で裏付けるような感じもあった。彼にアメリカ映画、特に本書のような若者の問題を扱った作品について解説をしていただきたい。
概要
著者のアビゲイル・シュライヤーは、アメリカ(の中産階級の家庭)で、トランスジェンダー宣言をし、男性に性別移行(代名詞や名前の変更、テストステロンの服用、胸をきつく覆う、乳房切除や男性器形成まで様々な段階を自分で選ぶ)する10代の少女の数が顕著に増えているという現象に興味を持ち、当事者の親たちや、トランスジェンダー(トランスセクシャル)当事者、SNSインフルエンサー、セラピスト、心理学者等等にインタビューを重ねていく。そこで分かって来たことは、少女たちの大半が、自分の性別(≒身体)に対する強い違和を持っているわけではなかったということ、精神的に不安定になったとき、インターネット上に「友達」を見出し、そのコミュニティの中に耽溺していったこと、その中で「分かってくれない親」を断絶するケースが見られる…という一連の特徴だった。筆者シュライヤーは、母親として、人生の先輩として、フェミニストとしてこの状況について報告している。
不安解消のための「トランス」
本書がヘイト本なのかどうかは「各自が読む前から決まっている」ことなので吟味しない。
本書は、10代の自殺の問題を取り上げたアメリカドラマ『13の理由』を違う角度からアプローチで作っているような印象を受けた。今の10代の子は、ネット依存的で、そこでの強い意見や時にはいじめに晒され、傷つきやすく不安な状態になっており、救いを求めている…というのがベースラインにある。
抗うつ剤、ドラッグ、セックス、アルコール、自傷行為…様々なものが「不安のない明るく朗らかな状態」を正とするアメリカ文化の中で「処方薬」として利用されている。それに加えて女子は、身体の急激な変化とそれに起因する社会関係の変化にも晒され、全く以て準備ができないまんま、自分の女性化していく身体と状況を受け入れなければならない。シュライヤー自身もそれを経験しているからこそ、若い女性の健康に強い関心を持っている。
ただでさえ不安定な10代の女子が不安や憂鬱に直面するとき、「女性になることを止めること」≒「男性にトランスすること」が一つの不安解消薬として浮上したのである、と指摘したところが本書の肝だ。つまり10代の女性にとっては、ジェンダーイデオロギーがどうのとかは主観的にどうでもいいことで、なにがしかの性別移行に関わる営為が不安解消手段の一つにランクインしているのである。
話はそれるが、それはほかでもなく、米国やカナダにおいて「トランスジェンダー・トランスセクシャル」という存在が可視化され、世の中に居場所を得つつあるという証左だ。そして大事なことだが本書では彼らの生き方や選択を全く否定しない。
フェミニストのシュライヤーは疑問に思う。彼女やその上の世代の女性が女性のために頑張って来たことというのは何だったのだろうか。若い女性(しかも性別違和を持たない「シス」女性)にとって、こんなにも「女になる」ことは忌避されるべきことなのだろうか。「トランス」を「女にならない」という否定の意味合いで実践する女性たちのことは、彼女にとっては驚きであったようだ。
更にシュライヤーにとっての驚きは、「レディ・ガガ」は彼女達にとって「素敵な女性のロールモデル」ではありえず、若い女性は相変わらずいわゆる「美しい女性」のイメージに苛まれているらしい、ということだった。
多分レディ・ガガよりももっと若い女性歌手…古典的な意味で美しいビリー・アイリッシュが10代女性のロールモデルって言われたらきついだろう。女子は微笑んで優しくしなくてもいいということを仏頂面や歌の歌詞で表現して来た人だ。だが、彼女がミノムシ服をやめてゴージャスなドレスに身を包んで仏頂面で出て来たとき、少女たちはどう思っただろう。
シュライヤーはむしろ、この若い世代の女性グループが性的にアクティブではないということにも注目している。多分ご自身の送って来た活発な性行動(と同時にそのリスクも)と比較して、若い世代の行動が理解ができないということもあろうと思う(『バービー』の中で、ミノムシ服を着せ、同調圧力に苛まれている存在として10代の少女を描いたグレタ・ガーウィグはシュライヤーの主張についてどういう意見を持つだろう)。何かが変わって来ている。
何でも肯定すればいいってもんじゃないだろう
私が思うに、オバマ期辺りに最高潮になった「肯定」の考え方…アメリカに行ったこともない私が察知できるのはドラマや映画だけなのだが…『glee』というドラマで展開していたアメリカを一新する物語が一巡した結果起きたことの「訂正」が始まっているのだと思う。
ジェンダー肯定、つまり「その子が自分自身を最も分かっているのだから周りはそれを肯定してあげるだけ、否定する言葉はその子を傷つけ極端な行動(自殺)に追いやる」という思想をセラピストや心理カウンセラーが実践しているということにシュライヤーは驚いている:それはセラピストやカウンセラーの仕事の放棄なのでは。
一方でカウンセラーやセラピストが「肯定」に異論を唱えることは「矯正治療」と見なされ、非難の対象とされている模様(この「矯正治療」というのは同性愛に対して行われて来た弾圧と暴力のことを指すのだと思っていた)。
私は基本的には「本人がそうしたいって言うならさせてあげればいいじゃん」という無責任リベラリストだ。だから「女性をやめたい」という欲求を否定すべきでないのではと一方では思っている。ただ、「本当の本当に女性をやめたいのか」という風に突き詰めて考える力が10代の子供にあるかと言われたら考えてしまう(私なんか30代に入っても自分の発達障害わかんなかったしな)。タイのトランスセクシャルのムエタイボクサー・パリンヤーの半生を描いた『ビューティフル・ボーイ』には印象的なセリフがある。「男はつらい。女の人生もつらい。でも一番難しいのは自分がどうなりたいのか忘れずにいること」。この内省が欠けているのが子供の未熟さなのであろう。
また、私はずっと思っているが、身体と自意識からは誰一人自由になれない。身体に加えられた変化はその後ずっと憑いて回る。まさに過去は亡霊だ(ヒンディー語の幽霊Bhootは過去という意味もあるらしい)。本当の本当に悩んでいるのかということを悩んでいる本人に直接ぶつけること程馬鹿らしいことはないのだが、身体への変更は後の影響が大きいので、ブレーキをかける第3者の目線も必要だと思う。
傷つくのは誰?
シュライヤーは、本書の最後の方で、「こんな本を出したらただでさえ傷ついているトランスジェンダ―当事者が更に傷つくから執筆をやめるべきだ」という言葉を友達に言われたことを取り上げている。しかし、私は、本書を読んで本当に「傷つく」可能性があるのは、性別違和を抱えて生きて来た人達やトランスジェンダー・セクシャル当事者ではなく、「SNSで言ってること、いいねしてもらえること、勇気を称賛されること(これにアメリカ人は弱い)」に乗って後で後悔している少女たち自身ではなかろうか。また、今まさにそれを体験しているその親たちであろう。
彼女達は、リースマンが書いた「他人指向型」のアメリカ人そのまんまをなぞっている。のみならず、女性が「女性」になることの大変さも滲んでいる。シュライヤーは母親として、フェミニストとして、人生の先輩として、そこに手を触れようとしている。本書を書きながら彼女は、「アメリカ人女性とは何か」ということも描いてもいる。「男の欲するものばかりを追いかけるあまり、女自身が女の欲求を低く見るな」「女には女の欲するものがあるはず」と述べている。身体からは逃れられない。また、同時に自意識からも。どうバランスするのがいいのだろうか。
LGBTが「Q」に扉を開放して以来、誰もが一単語としての「LGBTQ」だと言えるようになった。が、それは、身体と自意識のバランスにとってプラスに働くのだろうか。ラベリングが増えることは必ずしも自意識が生み出す様々な不安の処方箋にはなり得ない…LGBT∞ムーブメントに関して単純化して言わせてもらうと、私は、あなたは「LGBT」じゃなくてよかったね!と思うのだ。「私はQなんだ」と悩むよりも、「私はどうなったら幸せなのか」と細かい「ハピネス」を数え上げて理想像を組み立てる方がいいと思うのだ。しかしそれはそれで知的体力を要するということも知っている。
本に出ていたアメリカやカナダの10代の少女たちは、「私もトランスジェンダー」という未来を信じることで現在の不安を乗り越えようとしているのだと思う。ホルモン剤投与や身体手術が可視化されたことで、前より「トランス」は容易になったように見えるかもしれない。苦痛を伴う行為を超えてその先にもっと幸せで元気で朗らかな「本当の自分」が待っている…。主観的にはそうであったとしても、その願望の持ち方は、本当にそう信じて死ぬ気で実践して生きて来た数多くの当事者の経験を軽視しているのではあるまいか。どうして、どういう気持ちで性別を変えて生きたいと願ったのか、その結果得たものは何か、という当事者の語りにこそもっと耳を傾けるべきではないだろうか。
しかし、その咎は子供達に向けられるべきではない。むしろ、無責任な傍観者であった我々に向けられるべきだ。
傍観者の我々は10代のトランスの子供に「いいね」をするとき、当事者の個々の苦しみに思いをいたしたりはしない。だって「肯定」して欲しがっているのだから、それを与えてあげなければ。我々は、無責任にいいねをすることで、その10代の子は引っ込み付かなくなってしまうかもしれないとは考えない。手軽なワンクリック・チャリティーだ。
やがてその人が自分のしたことを後悔していると告白するや、我々は身勝手にも「ふーん偽物だったんだ」と切り捨てる。もしくは「裏切られた」と感じて憤怒すら感じるだろう。そういう身勝手な我々傍観者こそ、本書を読んで「傷つく」べきである。まだ北米での現象が顕在化していない日本では特にそういう意味のある本になるだろう。
だから、本書が日本語で出る前から批判していた人達こそ…本書がついている痛いところ…まさにSNS上の「いいね」罪を恐れているのではないかと思う。だからこそ「本が出なくてよかった」と表明したのだろう。
でも日本語版は出るらしい。そう「死者の書」が日本語になるのだ。どういう議論が出て来るだろうか。多くの人にとって、ただ恐ろしいだけの「死者の書」が新しい世界への扉になることを願っている。