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竹美映画評102 『デリヴァランス 悪霊の家』、2024年、アメリカ(Netflix)

悪魔祓い映画は多くの場合決まったテンプレートを持っている。

①幸せな核家族に悪魔が侵入し、構成員に憑依する。
②憑依された者は異常行動を繰り返す。
③家族が介護するも、先行きが見えず非常に苦しむ。
④カソリックの神父が命を懸けて悪魔と対峙、遂には悪魔を祓うことに成功する。

④の結末をいかに面白くするかがポイントであるし、②をやりすぎるとコメディになる。③は家族の問題を浮き彫りにする。

このジャンルの金字塔『エクソシスト』は、①にも少々ひねりがあり(それが最新作の設定にまで効いている)、④も面白い。

今回は「アメリカ黒人の毒家族」をひねりとして加えた『デリヴァランス 悪霊の家』について見てみたい。

あらすじ

エボニー(『ザ・ユナイテッド・ステイツ vs. ビリー・ホリデイ』のアンドラ・デイ)は、前科持ちでアルコール依存やネグレクトの過去がある母親だ。海外に派兵された軍人の夫とは疎遠、3人の子供たちに加えて母親(グレン・クローズ!)と共に、ギクシャクした関係を続けていた。最近新しく越した家は地下室からひどい臭気が漂う欠陥住宅。ケースワーカー(モニーク!)に居場所を突き止められて詰問されたり、子供たちが異様な言動を繰り返すようになる等、エボニーの精神も限界を迎える。そこへ女性の牧師が現れる。

飽きさせない毒家族物語

悪魔祓い映画の基礎を押さえながら、毒家族物語が紡がれる本作。リー・ダニエルズ監督の過去作品『プレシャス』『ザ・ユナイテッド・ステイツ vs. ビリー・ホリデイ』を観ていたら、もっと楽しめたかもしれない。

母→娘、娘(母)→子供達への暴力の連鎖から何とか立ち直ろうとする母親エボニーの苦労が描かれており、家族ドラマの演技の方に見入ってしまった。常に緊張感があり、(こんな言い方悪いが)全く退屈しない。

エボニーの母は白人女性で、グレン・クローズが演じている。相変わらず凄い。熱量は近似しているものの『ヒルビリー・エレジー』のおばあちゃんとは違う方向にすっ飛んでいき、今回は悪魔憑きまで見せる。クルエラ・デ・ヴィル再来?とか思ってしまうが、抑えた演技なので怖く禍々しい。

本作は実際にあったことをベースにしているとされている。しかしWikipediaを読むとがっかりしてしまうかもしれない。

ただ、これもまた、アメリカ黒人の母親を捉えた作品であるし、『ババドック』等に連なるホラー作品でもあると思う。

そんなとき、悪魔祓い呼びませんでした?…私はしてきたわッ?(三田佳子 in Wの悲劇)

悪魔祓い映画としては、『エクソシスト』のテンプレートである、白人の神父による献身とカソリックのモチーフが換骨奪胎されている点が特徴だろう。

本作では女性の牧師が現れて孤立無援のエボニーを導き、キリストと直接つながる神秘体験と悪魔祓いがオーバーラップしている。

特に、「私も神に愛されていると認識する」プロセスに重きが置かれている点に独自性がある。

ただ、そういう「型破り」が、ホラー映画としての面白さに繋がっているかと言われると、何とも言えない。私は家族ドラマを楽しんだ可能性が排除できないからである。

また、他の悪魔祓い映画と違って、神様がほんの少し人に力を貸したように見えるため、限りなくインドの神様ファンタジー映画に似た印象を持つ

悪魔祓いとは、家の中の悪いものを一掃し、仕切り直して次に進むための禊だ。悔い改めると言い換えてもいいだろう。

禊をすることで家族構成員各々が過去と決別し、もう一度家族をやり直し、愛し愛されることだってできるんだ、ということを言っている。

ところで、ミュージカル映画『カラーパープル』は、毒家族の中で「愛し、愛されることを探し求める中で自分という個人を確立する」物語だったという点で本作と似ている。

この『デリヴァランス』の一家は、二村ヒトシが『カラーパープル』を評した際に言及した「風通しの悪い家族」から、神の御心を知り、愛を知った「聖家族」として再生することはできるだろうか。

(映画では、赦しがおとずれて家族に回帰するという終わりかたなのですが、それも先住民的な自然に守られての大家族であって、風とおしが悪い密室で秘密の虐待が起きやすい核家族ではありません)

コラム:二村ヒトシ 映画と恋とセックスと - 第20回 コントロールと加害から脱出した人間はどう生きていくのか? ひどい恋愛の終わりにも参考になる「カラーパープル」

悪魔の荒療治とカタルシス効果

ところで、悪魔祓い映画について考えていると、時折、非ホラーで私の人生のバイブルといってもいい映画、『シカゴ』(2002年)が頭に浮かんでくる。

同作に登場する悪徳弁護士ビリー・フリンは、獄中から無罪を勝ち取るためビリーに接触したロキシーにこうアドバイスする。

大衆は悔い改めた罪人にヨワい。

『シカゴ』(2002年)

本作が風刺的に描き出した、名声を至上の価値とし、そこから得られる金銭については全く問われない様相とは、宗教保守的で禁欲的でもあり、贖罪し、自ら戒めを求めるようなアメリカのもう一つの側面…建前の顔と対をなし、どこか悪魔的だ。

何度か書いているように、悪魔は人の建前をぶち壊し、本音を暴く習性がある

『シカゴ』のフリン弁護士は俯瞰的でシニカルな、悪魔のようなキャラクターである。

『デリヴァランス』の主人公一家は、悪魔出現前の方が状態が悪い。信頼関係の再構築が停滞する中、悪魔が憑いた家に引っ越したことで偶然、憑依されてしまうのが不幸でもあるが、新しい出発の可能性も与えられたのである。

悪魔との遭遇が無く…つまり、最低なときに最低な家に引っ越さなかったら…関係修復はできたのだろうか。

一家は家族をやり直すため、悔い改めるために悪魔祓いのような禊が必要だったという気もしてくる。結果オーライだが、悪魔憑きと悪魔祓いの体験が、カタルシスとして家族を浄化しているように見えるからだ。

悪魔を利用しない手はない。こういう種類の「悔い改め、やり直す」物語が好かれるアメリカがエンタメ的なのか、私がエンタメ好きすぎなのか。

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