休職経験者の自戒と自愛
復職して4カ月目。
転職後半年で休職した私なのだけど、なんだか今は特に何事もなく復職後半年に辿り着くんじゃないかなぁなどと時期尚早に安心の前借りをしている。
転職後の4カ月目は、少しずつしんどさを頑張りでカバーしきれなくなり始めていて、漠然と辛いを毎日続けているような感じで騙し騙し自分を生かしていた頃。そして、7月は転職してきた今の会社の2年目を無事に迎えている。あの頃程遠いと思っていた1周年は、10日も経った今やっと「そういえば」くらいにやってきた。
復職してからの時間はそれくらい静かに過ぎている。
先日、半年ぶりの友人と会った。
彼女に最後に会ったのは屍の頃で、当時もギリギリで会いに行った微かな記憶。生きるエネルギーやパワーがすごく強い子で、全くもって類は友を呼ばないなぁと感じる子。年に数回突然の嵐のように「会いたい!!」と声をかけてくれる。
半年ぶりに会った彼女に「元気そうでよかった!」「顔色良くなってる!」と言われてホッとしたと同時に、少しだけいつもの太陽のようなパワーが陰っているように感じたら、どうやら会社を休もうかという思いが少し頭を掠めていると言われた。
話を聞くとそれはそれは身に覚えのある状況で、とても他人事には思えなかった。無責任に「今すぐ休んで欲しい」と口走りそうになったけど、私は専門医でもなければ心のプロでもないのでぐっと言葉を飲み込んだ。
すごくよく分かるからこそ、簡単に休めと言えない。
休むことはものすごく苦しくて辛い。私にとっては生き地獄だった。
「なぜ休もうと思ったのか」「どこまで行ったら休んでいいのか」「休んでよかったか」の経験談を聞きたいという彼女に、できる限りそのまま、包み紙を薄くして話した。
それを聞いた彼女は「いろんな意味で安心した」と言った。
私もそうだったけど、仕事を休む、という得体の知れない状況に飛び込むのは物凄く怖い。どうなってしまうか分からなくて、一度飛び込んだらもう二度と元には戻れないかもしれないと怯える。もう助からない片道分のガソリンで飛び立つような、決死の覚悟。あの時の恐ろしさは今でも鮮明に思い出せる。
なかなか生身の姿で、その得体の知れない状況を生きている・生きていた人と対峙することはできないし、私もできなかったし。
私が、今なんとか片道分のガソリンで帰ってきて、でもそこで経験したことはひとつも美談ではないということを伝えたことで、彼女の未知への恐怖を緩和できたみたいだった。
そして彼女は「今はまだ休む勇気は出ないかもしれない」と言って少しだけ眉間や肩に溜まった悪い力を解放できたような顔をして帰って行った。
その通りだと思う。
そうやって今の彼女がその決断ができてよかったと思った。
自分自身を判断することが、彼女はまだできている。
心配だけど、ほんの少し安心した。
私の主観や経験で色んなことを話してしまったけど、私の中に、彼女が休む・休まないという正解は絶対にない。
気持ちが分かるというのは、あくまで私の経験から出る私の想いであって、そこに彼女の生き方を促す権利はない。でも、彼女にとっての何かが緩まるほんの少しの安心が生まれたのなら、すごく嬉しいことだと思った。
明日生きる選択に助言はできないけれど、昨日生きた選択に賛同したい。
無責任に相手の生きる道を促さない。経験者だからこそ、しっかりと相手へかける言葉に責任を持ちつつ、相手の選択を尊重できるように。という自戒。そして、全ての主観には加害性があることを忘れず、静かに今を生きていること、それがあまり前向きじゃないこともほどほどに受け入れながら、私自身も昨日生きたこと、今日も生きていることに賛同していたい。という自愛。
改めて、何度でも、言い聞かせていきたいと思う。