九段理江教へ
芥川賞受賞をきっかけに興味をもっておりまして
二作読みましたので以下感想つらつら
『School girl』
これ直訳『女生徒』ということでよいのでしょうか
太宰治の『女生徒』のごとく、朝目が覚めたところからその日寝るまでの内面を描く。
これは九段理江さんとしての太宰治『女生徒』の解釈は、一人の女性の内面だけでないということなのかなと。
魔女宅のキキにある考察にあるような、母と娘のどちらも“女生徒”なのではないだろうか。
“みんなを愛したい”
からの
“美しく生きたいと思います”
が良かったです。
あと、少女のうちに死にたかった、、、ってところも。
上記だけでなく、冒頭から太宰治『女生徒』のオマージュを彷彿とさせるはじまり。
太宰治『女生徒』が十代の少女の日記をベースにした小説であり、語り手というか本来の日記の書き手の少女は当然ひとり。
それに対して『Schoolgirl』は母と娘が、母のモノローグと娘が一方的に社会派YouTuberとして配信する動画で語っている。
娘になめられている母親も読み進むにつれて母親然としている。
偉そうなことを言っている娘もお母さんお母さんと繰り返す。
今まで一番ひどい、と塞ぎ込んでいる娘に対して、たかだか14年分だけのニュースを頭の中で振り返るだけで済ませる母親。東日本大震災でさえも対象にならない。それが娘の、少女の年齢を極端に浮かび上がらせてきたと感じた。
太宰治『女生徒』を書いた1937年は戦時中だったと。そんな話をしたとき、小説に囚われた母親のことどう思ったんだろうかってまだ少し考えてます。
母も娘も名前が出てこない。これは母と娘のふたりが語っている(娘は動画を通して)けど、結局これは一人なんだろうな。ってよく分からない感想に行き着きました。
そして『東京都同情塔』
「シンパシータワートーキョー ださい」
で検索ワードがありふれそうな世界観
難しかったけど面白かったというか興味深かった
これは想像する、熟考するに値します
犯罪者に同情できますか?という煽り文句がありましたが、読んでみたら私にとってはそのテーマは二の次になってました。そのテーマに関してはもちろん正解はないし、パンピーな私としてはありきたりな答えしか導き出せないと思ってる。
それよりもAIとのやりとりやサラ・マキナとタクトが考えている内面の描写が際立って際立って仕方がなかったです。
“看守がつねに彼女の話す言葉を見張っている、監獄”や“私の中にいる検閲者”という表現が印象的でした。発言力のある人はもちろんのこと、一般人の私たちも常に口に出す言葉には逐一気をつかっている。自然と。
AIに対して、あなたは文盲、と言い切るサラ・マキナ。え?逆では?と考えることを促されているようでした。どうしてAIが文盲?と。
なんだかいろいろ考えました、、、難しかった、、
建築と人間を同一視してると感じる箇所が所々あったり
ウチとソト、未来と過去、なんかをタワーが象徴性をもってるんだろうなとか
あとはやはり、言葉、とくに日本語、そして日本人特有の言葉回しについて
建築家の女性は未来を見ることができる、という表現が出てくる。私には未来が見えるのよ、と。
“見えている、というと超能力みたいだけれどたぶんそういうのとは違って、見えた未来のヴィジョンをただ心の底から信じている。だから疑問も恐れず抱かず、答え合わせをするようにヴィジョンをなぞればもう自動的に、それは現実になっている。”
と。なるほど強い、、、
『コンビニ人間』、『火花』、『スクラップアンドビルド』、『ハンチバック』、、、に続いて私の中で仲間入りした感があります