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牛乳の思い出
先日、昔のイタリアの生活に関する文章を読んだ。
今のようにスーパーはなく、牛乳なども配達してもらっていた、と。
「そういえば、私が小さい頃も牛乳配達していたな、ヤクルトのおばちゃんもいたし。」と思い出した。
どこの国も同じように生活は変化しているのだな、と思った。
それと同時に、『牛乳配達の思い出』を思い出した。
今考えると、悪いことをしたな、ただの悪ガキだったな、と思う。
***
私が小さい頃の話。
多分、4歳くらいじゃないかと思う。
近所のいくつかの家が牛乳配達をしてもらっていた。
玄関先に箱を置いて、そこに入れてもらうのだ。
我が家では牛乳をとっていなかったので、どういうシステムかよくわかっていなかった。
幼き私は、「牛乳屋さんがプレゼントしてくれてる」と思っていた。
そこで起こる疑問は、
「なぜ、我が家にはプレゼントしてくれないのか?」
ということ。
母に、隣の家の牛乳飲んでもいいかな??
と聞いたところ、
「絶対にダメ」
と言われていた。
私はなんでうちには運んでくれないんだろうと思っていた。
***
私の隣の家も牛乳配達をしてもらっていた。
例の如く家の前にボックスが設置してあり、牛乳が届くのだ。
ある日、姉と外で遊んでいて、とても喉が渇いていた。
姉が悪魔の囁きをした。
「この牛乳、飲む?」と。
もちろんそれは、隣の家の牛乳であって、我が家の牛乳ではない。
しかも、数歩行けば自分の家に飲み物があるというのに。
「絶対にダメ」と母に言われていたにもかかわらず、
幼き私たちは目の前にある誘惑に負けた。
しかも牛乳を飲み干した空瓶を、しっかり箱に戻していたのである。
相手の家からするとビックリだと思う。
箱を開けると、新しい牛乳ではなく、空の瓶が入っているのだから。
母によると、1回ならぬ、数回この悪事を働いていたらしい。
この辺りはあまり記憶にない。
でも、味が美味しかったのは覚えている。
そりゃ、スーパーで買うのよりは美味しいはずだ。
美味しかったので、確かに数回繰り返していたのかもしれない。
今思えば、本当に悪い子たちだ。
近所には他にも牛乳配達ボックスはあったのだが、なんとなく隣の家が馴染みがあったし、近いしで、手が出しやすかったのだと思う。
当時この牛乳たちは、「牛乳屋さんからのプレゼント」と思っていたので、タダ飲みしているという感覚はなかった。
***
その後、母親に怒られた。
お隣さんは私たちの悪さに気づいて、母に言ってきたらしい。
子供のしていることだから、仕方ないけれど、と。
怒っているというよりは、お困りの様子で来たらしい。
「あの牛乳は人が買っているもので、うちは買っていないから勝手に飲んではダメである。」
と大変怒られた。
この一件(数件?)で、「牛乳配達システム」というものを身をもって理解したと思う。
社会の仕組みを学んだというか。
人は失敗から学ぶもの。
母はおそらく、私たちが飲んだ分をお隣さんに支払っていたと思う。
母はお隣さんに謝罪しまくったらしい。
母の苦労なんて、梅雨知らず。
悪びれもない。
子供とは呑気なものだったなと思う。
今でも実家のお隣さんは同じですが、
他にも色々やらかしてた気がするし・・・、お隣さんには悪いことしたな、と思います。
***
夫にこの話をしたら、
まじで悪ガキじゃん!
って言われました。
すみません。
はい、ちょっとした悪ガキでした。
人の家のインターホン鳴らして猛ダッシュする遊びしてました。
人の家の木に生っている果物をもぎって、学校の帰り道に食べてました。
栗の木から栗を取ったら、実は友達の家の栗だったってこともあります。
でも、今となっては、いい思い出なんですよ。
でも、そういう些細な悪さから、いろんなこと学んだんですよ。
何がいいことで、何が悪いことか。何をしたら怒られる、とか。
子供ってこうやって大人のへの、社会への階段を登っていくと言いますか。自分では、そんな気がしています。
タケディーナ