【仕立て屋の繕う日々】羽を織る
コロナのとき、アトリエを出て自宅でしばらく仕事をしていたことがあった。二階の奥の扉をタンと閉め、部屋に籠ってドレスをつくった。わたしは仕事に集中すると、まわりのことがわからなくなる。なんなら子どもが居るということでさえ、ふと忘れてしまうようなときがある。
そんなわたしを見て、娘は言った。
「ドレスをつくっているときのお母さんって、昔話の『鶴の恩返し』の鶴みたい。戸を閉めて、羽根を抜いてドレスをつくってる」
たしかに、その感覚はあるかもしれない。ドレスをつくるとき、みずからの身体から何かを差し出して、その引き換えに美しいものをつくるような。
そのせいか昔はドレスを1着仕上げるごとにぐったりしてしまって、必ず熱を出していた。納品が終わって、アトリエの床でそのまま寝ていたりもした。さすがに今はそこまでのことはないけれど、ドレスが仕上がると身体が空っぽになるのは、きっと何かを引き換えにしているからなのだろう。
以前、過去につくったドレスと、久しぶりに再会したことがあった。花嫁さまの姉妹が着ることになったので、もういちどリメイクをすることになったのだ。かつて自分がつくったドレスを見てびっくりした。ほんとうにこれ、じぶんでつくったのだろうかと。たしかにわたしがつくったのだけど、細かいところの記憶がない。記憶がないけれど、とても綺麗に仕上げている。
もしかするとドレスをつくっているときのわたしは、「ヒトではないもの」になっているのかもしれない。
こんな得体の知れない、ヒトなのか、トリなのかわからないような大きなエネルギーの塊が、家のなかに居るのは、やはり健全ではないような気がする。それはきっと、子どもにとってもそうだったろう。
家から出て、今のちいさなアトリエで仕事をするようになってほんとうによかったと思う。
こういうのって、場所の「空気感」も関係するのかもしれない。いまのアトリエにこもっていると、「鶴への変化」感覚が薄まったような気がする。緑が近く、風通しがいいせいだろうか。それに最近では、羽根の抜き方も上手くなって、あまり痛みやダメージを感じなくなっている。
でも、ときどき、あの感覚が戻ってくる瞬間がある。わたしはいま何か得体のしれないものになって、ドレスをつくっている。その感覚。それはゾクゾクするほど恐ろしく、とてつもなく美しい瞬間なのだ。
▼ドレスをつくりながら「得体がしれない怖くて美しいもの」の力を借りたいときに聴く音楽。
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