終戦の日を前に平和を願って
広島原爆投下の日に戦争に関する記事を投稿しましたが、本当はまだ紹介したいエピソードがあったんです。
どうしてもこう言う話は悲惨で重たいですし、もう75年も前の話なんだけど、良いも悪いも「歴史は繰り返す」は真理だと思っていて、でも間違いを繰り返さず少しでも良い方向に進めるための知識になればと思い、関心もあって調べたセブとマニラの悲劇を紹介します。終戦の日を前に、何かを感じて頂けたら嬉しい限りです。
日本人の悲劇、セブのゼロ戦と野戦病院
今日は歴史を少し紐解きたいと思います。
「ゼロ戦」は有名ですが何故あんな狂気のアタックが始まったのでしょうか?それは「勘違い」からでした。
1944年9月フィリピン南部ダバオでアメリカの動きを探っていた前線基地の監視塔の兵士が海に大きな白いうねりを発見して、「アメリカが大軍をなして攻めてきた」と本部に報告しました。数日前にサイパン・グアムと陥落が続いて軍部は危機感があり、全力で対応する為に「万が一の攻撃リスク」を減らす為国内に分散配置していたゼロ戦を中継基地のセブ空港に集結させました。
ちなみに、これは白波が水陸両用車に見えた単なる勘違いで、源氏物語で水鳥の羽音を源氏が襲ってきたと思いこみ逃げ出した平家の失敗になぞり「ダバオ水鳥事件」と言われています。
こうして、たまたまセブにフィリピン中のゼロ戦が集まった時に、誤報と分かり安心して油断していた時に、日本軍の補給時間と重なり監視が手薄の時間に、アメリカ軍の空襲が起きました。飛び立つ前のゼロ戦を攻撃する事は、赤子の手をひねるより簡単で、多くの飛行機とベテランパイロットを失ったのです、
この後、残った少ない戦力で効率よく相手にダメージを与えられるか?が議題になった軍で「特攻の父大西瀧治郎」が、「1人の命の代償」で、相手空母の甲板にダメージを与え、1週間飛行機を飛べなくする為の「特攻」が提案され、採用されたのです。
そして、ここセブから飛び立ったゼロ戦が非公式の記録で最初の特攻で成功したとも言われ、特攻の継続が続いたのです。その後3ヶ月で海軍では323機、陸軍では202機の特攻機が未帰還となりました。
又、セブ市内にはレイテや周りの島々で負傷した人が集まる大きな野戦病院があり、医療品不足の酷い環境の中看護師や医師による懸命な治療が続けられていました。「南方第14陸軍病院」もその一つでした。
激しい戦火で市内から山中に移転を余儀なくされた病院で悲劇が起きました。戦争は人を鬼に畜生に変えるのです。一旦落ちぶれると慈悲の心はもうありませんでした。病院長部隊長、真田武雄少佐の行った狂気は以下の通りです。
1. 人々への食事提供について
兵士でも芋茎が2-3個の塩汁のみ、患者はそれ以下
自分とフィリピン愛人にビフテキなど豪華な食事
2. 病院にアメリカ軍が迫ってきた時
部下に病院を自分の命に代えても死守せよと命令
自身は愛人と一緒に安全地帯に早々に撤退
3. 戦火がひどくなり病院を捨て逃げる時
負傷兵に「捕虜は日本の恥だ」捕まる前に自決せよ
撤退に同行している怪我した市民も同様に自決命令
自決できない程の重症者は、昨日まで懸命に看護していた、医師や看護師が立ち合いの中銃殺されたのでした。
フィリピン人の悲劇、マニラの戦い
マニラではフィリピン人が悲劇に遭遇していました。
アメリカと日本の激しい戦闘の中で日本兵を悩ませていたのがフィリピン人ゲリラです。ベトナム戦争も同じでしたよね。民間人に紛れて見分けがつきません。戦況が不利になり追い詰められた日本兵は、そこで見境なしにフィリピン民間人への攻撃を始めてしまうのです。
大戦末期の1945年2月3日から同年3月3日までマニラで日本軍と連合軍の市街戦が始まりました。
敗戦を意識し自暴自棄になった日本兵は、当時高級住宅があったエルミタ地区で
フィリピン在住のドイツ人クラブの建物を包囲。地下スペースに避難していたフィリピン人がいるのに、建物内部に衣類を積み放火した。慌てて「ワタシトモダチ」と出てきた女性を次々と強姦し、13歳の少女も輪姦した挙句、乳房を切り取り兵士が自分の胸にあてオカマの真似をして、それを見て皆が笑っていた。その後女性の髪にガソリンをかけ焼いた。
クラブの使用人男性は当時2歳の息子を竹槍で突き殺され、仕返ししようとしたが逆に袋叩きにされた挙句、ガレージの柱に縛り付けられ、性器を切断されて口内に突っ込まれた、その後親兄弟は殺されたが自分は死んだふりをして生き延びた。
エルミタ地区に住んでたフィリピン人はつらい思い出に堪え切れず引っ越す人が多くなり、空き家にカラオケやスナックなどが出来てマニラの歓楽街になったらしい。
書いていて憂鬱になってきましたが、勇気を振り絞って続けます。
この、マニラの戦いでの日本軍の戦死者は約12,000人、アメリカ軍の損害は戦死者1,020人。フィリピン市民の犠牲者は約10万人といわれています。
この戦いの罪で戦後総指揮官の山下大将がマニラで絞首刑に処されました。
キリノ大統領の憎悪と「許し」
「エルピディオ・キリノ」は戦後、第6代大統領就任してフィリピン経済立て直しの責務を担ってました。
実はマニラの戦いで避難しようとしていた妻のアリシアと長女ノルマが日本兵に銃殺され即死。妻が抱いていた2歳の娘は地面に投げ出されて泣いているところを銃剣で何度も刺されて亡くなりました。自宅に戻ったキリノはスーツケースに2歳の子供の亡骸を入れ避難の途中に仮埋葬して避難を続けた過去があったのです。
戦後、戦犯を処刑する為に裁判が行われ、多くの日本兵が刑務所に収容されていました。「モンテンルパ」もその一つでした。
裁判は戦争の恨みで不当な判決も多く、モンテンルパで昭和26年1月19日14名の死刑執行された内13名はセブの事件の戦犯でしたが、6名はセブに行った事のない人です。これに失望し自分の死を予期した受刑者が悲しい境遇を歌にしたのが「モンテンルパの夜がふけて」です。
当時従軍慰問歌手「渡辺はま子」が歌い日本中でヒットしたのです。そして「復讐から平和は生まれない」と画家「加納辰夫」と200通の嘆願書とこの歌のオルゴールをキリノ大統領に送り恩赦をお願いしたのでした。
悲しげなメロディに心を揺り動かされ、曲の由来を初めて知ったキリノ大統領は日本人への憎悪が渦巻くフィリピンで次の様に述べ、モンテンルパに収容されている105人の囚人の恩赦と日本帰国を認めました。
「私がこの個人的な怨みを持ち続けるなら、私の子供達も次々と永遠に持ち続けることになるでしょう。
将来、フィリピンと隣り合わせの位置にある日本との関係は,あらゆる点において親しく助け合って共存共栄の実を挙げなければなりません。その為には私恨を断ち切らなければならないと決心したのです。」
フィリピン人に戦争で殺害を繰り返した日本人をどう思う?と聞いた事があります。返事は「昔は色々あったけど、今のセブの生活で日本人からの支えは欠かせないから、今の日本人はパートナーだと思っている」と言われました。
一方で私は経験の中で、未だに時々白人系には憧れ尊敬するのに、嫁も含めて東南アジアの人はどちらかと言えば下に見る日本人を感じる事がありました。私にとってフィリピン人は懐が深く、慈悲に溢れる心を持っている人が多くいると感じてしまいます。