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第二頭に落ちる(二級品だ)
仏法の深妙で絶対の真理・真如のことを、第一義諦(だいいちぎたい、または第一義門)と言う。第一義諦を言葉で端的に言ってもなかなか相手に通じない。逆に言葉多く言いすぎることは、相手は上の空で聞いてしまう。悟ったか悟っていないかを示すことを、「入作(にゅうさ)の分有りや也(ま)た無しや」と言う。ここで、入作とは、なるほどと頷く(悟る)ことを意味する。
問題は、悟りというのは本当にあるのか、無いのかということだ。
実際には悟りは無いとは言えないのだが、はっきりしているのは「第二頭に落ちる」のはよくないということだ。第二頭(または第二義門)とは、二級品ということ。どのような人が第二頭かというと、「おれは悟った」などと言いふらす人、単に悟ったと思う人だ。悟ったらその悟ったという意識をも捨て去らねばならない。そうなって初めて一級品(本物)となる。
もちろん、最初は第二頭に至るべき、まずは悟りを開くべきだ。ただし、第二頭に至ったら、さらに第一義門に移っていかねばならないのだ。どのようにして悟ったという道具のことなど忘れて、悟ったということすら忘れ去るのがよい。このことを、「功未だ尽きざれば駢拇(べんぼ)となる」(坐禅の功によって悟りを開いても、悟りに囚われていると有害無益になる)と言う。
[補足]駢拇とは、足の親指と人差し指が連なるさまを表しているが、そこから転じて有害無益とか身も蓋もないことを意味する。
仏法を正しく説く言葉は、「痕玷(こんてん、玉の傷やよごれ)全く無うして白珪(はっけい)を貴(たっと)ぶ」(迷いや悟りのきずあとは全くなく、白く清らかな玉)ようだ。
そのような言葉を大切にしたいものだ。
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