師は、弟子に足元を見させようとする #禅の言葉
生への執着というのは、「死」という先にあるものを見ているからこそ起こってくるものである。「死」は、いつ来るか分からない。そのようなものに右往左往してはならない。大切なのは、「今、ここにある自己」をしっかりと見極めることだ。そのことを意味するのが、 脚下照顧(きゃっかしょうこ、足元を見させる)である。
不生(ふしょう)の性(しょう) 不生とは、「永遠に変わらない、迷いを超越した絶対の真如そのもの」を意味する。性とは、仏心・仏性、万物の本体(真如)のこと。すなわち、絶対の真如である仏心のことを、「不生の性」と言う。一方、生(しょう)とは、仏心の働きとして現前するもの。
私たちは、現前に見聞きするものに執着しやすい。どのようにすれば長生きできるかと考えてしまう。たとえば、川に剣を落とした場所を記す目印を刻んでも、船は動いているから元の場所を指しているわけではない。そのことを、「剣去って久しゅうして爾(なんじ、お前は)方(まさ)に舟を刻む」と言う。
足元を見るのは、身心脱落(身心の本来の姿にたちもどること)による。それは、「どのような状況である」ことを見るのだろうか。
豁落(かつらく)として依(え)を忘じ、高閑(こうかん)にして覊(ほだ)されず 豁落とは、広々と開けていて何も無いこと。そのような状態は、何も頼る処(拠りどころ)がなく、ひっそりと静か(高閑)にして何ものにも束縛されない(覊<つな>がれない)様であることを言う。
家邦平帖(かほうへいちょう) 家邦(自己本来の面目、仏心)は、平帖(平安)である。少しばかり「分かった」などと思い込むと是非の世界に入り込み、決して平帖にはなりえない。
介(ひと)り大方に立って軌轍(きてつ)なし ただ一人大方(一切の所)に立ち、軌轍(車の通ったあと、わだち)を通っていく必要もない。脱線しようなく、自由自在である。
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