時の流れのように.....(902)
旧約聖書の中の『コヘレトの言葉』の中に、「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」という一節があります。この「時」とは、どのようなものでしょうか。
「時」は、辞書には「過去から現在、現在から未来へと、一方的また連続的に流れていくと考えられているもの。物事の変化・運動によって認識される」とあります。すなわち、
過去 => 現在 => 未来
(以)前 => 今ここ => (以) 後
のように時間と共に流れていくのです。このとき、過去は「何年前」と呼び、頭に浮かんだものを記憶として見る(思い出す)ことができます。現在に目の前にあるものは見ることができます。しかし、未来のことは「何年後」と言い、自分の後ろにあるが故に見えません。また未来は知らないうちに急に起こります(たとえば、急に地震を感じるように)。私たちは、急に起こってくる未来はあるがままに受け止めないと、すぐに過去のことになってしまうため再現することはできないと知るべきです。それが「時」なのです。
ちなみに仏教では「過去心不可得・未来心不可得」と言い、過去のことは再現できない(不可得、再度得ることはできない)し、未来のことは周りの条件や環境が変わるかもしれないので手にする(得る)ことはできない、と言います。その意味で、前述したものと同じことを言っています。
さて、聖書には「すべてのわざには時がある」とも記載されています。ここでいう「わざ」とは、「行為、おこない」という意味です。よって最初に述べたことは、「行為によるすべての出来事には時がある」という意味となり、さらにそれは神によって定められた時であると言っています。
ちなみに仏教では、「わざ」は「業」という言葉で表しており、「身・口(く)・意が行う善悪の行為。特に悪業。また、前世の悪行の報い」であると説明しています。身口意の三業とも言い、人間のあらゆる行為を意味しています。そして、その行為は、周りの条件や環境によって変わっていくと言うのです。このことを、縁によって起きると言っています。その意味で聖書の言い方と同じようなものだと考えることができます。
ここまでのことから、「すでのわざには時がある」という背景には、私たち個人の力の及ぶことのないもの(偉大なる力、ものをものたらしめるもの)が働いていることがわかります。そのことがわかれば、自分の周りに起こることに一喜一憂することなく(正しくはその瞬間には一喜一憂はするものの、それに引きずられることなく)生きていけるではありませんか。
何事にも捉われることなく、一瞬一瞬を精一杯生きていくことが重要なのです。
*****************************************************************************#心 #ストレス #あるがまま #関係する人 #正しい見方 #禅 #禅の言葉 #迷い #自分学 #リーダー #役に立つ情報 #平尾隆行
電子本の案内:
ストレスをなくしてあるがままの「こころ」で生きる Kindle版 など
[Kindle 無料アプリをインストールして お読みください。]
「あなた」が変わる古典の言葉―「日・中・英」でみるビジネスに役立つヒント55 単行本 https://amzn.to/4b9jbjV
*****************************************************************************