仏祖は神聖なものではない #禅の言葉
仏祖は特別であり、神聖なものだと思ってはいないだろうか。
それは、ただ単に修行の結果としてあるもの。仏祖と呼ばれる人は、輝いて見えるのでもなく、一見愚者であるかのように見えるものである(大智は愚の若し)。
不采(ふさい)を佯(いつ)わる底 采(いろどり)や飾りなどいつわる人。いわば見た目には、びっこで、けがなどしていて指や手がなく、ボロボロの着物(繿繿、らんらん)を着て、髪の毛がクシャクシャ(纉纉、さんさん) 、何も優れたところを見出せない(百不能)ような人だ。
何も見出せないというのは、言葉を変えると心中(田中)黙々として穏やか、すなわち「無心」であると言える。
三世諸仏有るを知らず、狸奴白牯(りぬびゃっこ)却って有るを知る この世界に〝真実なもの〟があることを、三世(過去・現在・未来)に現われる仏たちでさえ気づかないが、むしろ狸奴白牯(狸や牛)のような畜生の方がよく知っている。
悟り面をしている高僧たちがわからないことを、何も知らないとされる狸や牛が知っている、という嘆きの言葉。
高級官僚や政治家といった物知り顔をしている人が、世間を汚している現代にもあてはまる言葉である。
騰騰(とうとう、自然に任せのびのびとした任運自適のさま)としている様の人の方が、よほど優れている。
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